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Aska Temple

All about John Ubel and Aska Temple

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3つのパンフレット

SU FRIEDRICH
3つのパンフレット
 FIRST COMES LOVE (1991)
 GENTLY DOWN THE STREAM (1981)
 SINK OR SWIM (1990)

FIRST COMES LOVE
(1991)
by Su Friedrich

 「ファースト カムズ ラヴ」は、複雑なポピュラーソングスのメドレーによる伴奏を伴った、完璧な、4つのウェディング セレモニーのバレエの振付からなる。

 カップルが祭壇に辿り着くまでは、全てがそうあるべきであるかの如く、順調に行われている様に見えるのであるが、その時祝福の雰囲気が、驚く様なパブリック サービスによって妨害される。

 それから、歌とダンスは、幸福なカップルズが別れるまで続く。後には、小さくなっていく群衆が残され、2、3人の教会少年奉仕隊が、雪のように舗道を覆うライスを掃除している姿が残される。

 このフィルムは、結婚の習慣を弁護しようとしているわけではない。また、この習慣の信憑性を疑っているわけでもない。

 その代わりとして、このフィルムは、多くのこの結婚というイヴェントを取り巻く、狡猾な様々な感情を暴露している。そしてゲイ カップルズや、ストレート カップルズを感動させる結婚というものを尊重する二重の規範の在り方について、疑問を投げかけている。

ザ ヴィレッジ ヴォイス誌
             マノーラ ダージス評
 「最初から最後まで、徹頭徹尾、フリードリヒは上品な距離を保ち続けている。批評を建設する事、それはVery Real<無茶苦茶なまでのリアルさ>を保護する事ではなく、なおかつ彼女が捉えた無茶苦茶なまでの素っ裸の感情を保護する事でもない。清澄、明朗の巨匠、フリードリヒは、本人自身を政治的に改作する事により、パブリック(公共の人々)をして好奇心を持ちつつ、物珍しそうに親交させている。彼女の両手の中でカリフォルニア米がゴミ箱に捨てられるSlow Panは、辛辣であると同時に不条理でもある。特権の儀式への適切な、バレエの終結部の完了の印象としてのコーダ、それはただちに熱く望まれているものであり、かつ、拒絶されるものである。」

ゲイ コミュニティ ニュース誌
               レスリー コゾフ評
 「微妙な差異としてのニュアンスと、アイロニーによる、1つのあるワーク、、、、、穏やかに、それでいてかつ、またなお、強く、収監とLOVEと、その公共放送の在り方について議論を続けている、或る”視る人”に対して、問う」





GENTRY DOWN THE STREAM
(1981)
by Su Friedrich

-穏、降、流-
若い時のスー フリードリヒ

 「ジェントリー ダウン ザ ストリーム」は、あなたが、水の感触を捉む事が可能である事の容易性について、詳細に説明されている。
 「ジェントリー ダウン ザ ストリーム」は、フリードリヒ嬢がフィルムにおいて必要とされる美術家の趣を、お持ちである事を説明するのに充分である。
 「ジェントリー ダウン ザ ストリーム」は、そのフィルムの中でフリードリヒ嬢が或る、全き自己の宇宙的“由”としての自由を同伴させつつ、さしてかつ、また、正さの正当性というものの本質をも随伴する事により、この御令嬢自身の内的宇宙そのものを全外的宇宙に向け、御姿を現している。そして、その御姿としての宇宙は、“視る人”を打ち、即座に、狂った弓の的をも寸分の違いもなく、正確に射させるのである。永遠の残像が、スクリーンを垣間見、その宇宙の本質的深奥の絶対無としての存在自体を覗き視た瞬間、あなたは、もはや、全ての言葉を失う、あなたが視てしまったものについての。だが、しかし、あなたは、全宇宙存在との一体として“解っている”、あなたが、触れたものについて。

-スチュワート クラウン氏
ネイション誌

 かの御令嬢のフィルム、天に座す、「穏、降、流」(ジェントリー ダウン ザ ストリーム)、映像表現における創造の革命としての啓示、そのフィルム「穏、降、流」(ジェントリー ダウン ザ ストリーム)は、論証する。フリードリヒ嬢の考察における、技工上の精霊の揺らぎと、神の下においてさえ、何ら恥ずべきものの無い創造性。賢者と等しき、歴史の趣における良性。他社へ開かれた、神の前で、堂々たる姿を現す兵法。普遍的観念の繋がり、「構造フィルム」との。
 フリードリヒ嬢のフィルム、それは、一つの或る、一度は天界から追放された人間世界における、天空への通路となるであろう。一つの有るもの、それは、永遠に表を向き続ける。そしてそれはまた、その精霊の揺らぎを“視る人”へ与え続ける。それは、プシュケとしての霊魂の重要性、神聖な、必然性の自由。仮想の霊的両性具有への矛盾律。

-ブルース ジェンキンズ氏
ミリニウム フィルム ジャーナル誌





SINK OR SWIM
(1990)
by Sue Friedrich

沈む もしくは 泳ぐ
ババア スー フリードリヒ

 実は、地獄の底へ落ちてゆくだけのニヒリズムに耐える事のできない弱さの現れ。完全な現実逃避の中で、沈む事を直視できずに、「もしくは」泳ぐ、という希望を持っているかの様に見せかけているが、そんなものなど存在しない事は明らかであるのに、すがっている有り様は、ドラッグに溺れる元ヒッピーのジジババ達の姿と重なり過ぎる。これは、もはやジョークとし受け流すしかない。

 26作のショート ストーリーズのシリーズを通じて、或る一人の少女が、説明する子供の事件集。それらは、スー フリードリヒというババアによって形作られているこのババアのアイデアというものであり、それは、このババアのオイディプスという当時フランスから遅れる事、26年、日本などの典型的バカ文化後進国でモテハヤサレ続けていたテーマについての、ババアの“あいであ”というものらしい。“ふぁみりぃ りぃれいしょんず”とか“わあく あんど ぷれい”をオイディプスの“りぃれいしょんず”によって解き明かすという、当時の馬鹿の日本の遊び人でも容易に出来るお笑い言葉である。

 おはなし が、閉ざされたものを、開くに従う時間と空間のズレにより、或る一つの、二つの写真、それも、じんぶつ という動物の物質の肉体の、光の映す写し、仮象にすぎない 真 という偽りを信じようという、馬鹿なババアの肉体という物質の欲望と、その欲望に忠実であるが故に、堕ちざるをえないことを直視できない。

 この仮象が、仮象である事が、水中から地獄に向かって、地獄深くヘ、逆ベクトルで現れ、沈んでゆく。そして、その仮象が仮象であるという事について、父の肉体の光りの映す写しとしての、仮象が真であると思いたい、願望と欲望が作りだす、“ぽとれいと”という物。ぽおとれいと の父が、「望んでいた」という、仮象が仮象であるという事により、真などないのに、真にすがりつくが、地獄としての真の逆さまである事に代わりないのに、沈んでゆくのを直視しようとしない。そして、その ぽおとれいと の父が、ぽおとれいと の父自身が、ぽおとれいと の父自身の「更なる望み」でもって、仮象を更に仮象である現実に直面してゆく、このババアの あいであ という設定による子供のメスガキ。

 その ぽおてれいと の父は、ぽおとれいと の ふぁみりい というもの以上に、ぽおとれいと の父自分自身の「望み」を持っていたという、仮象の更なる確信によって、娘であるメスガキは、その ぽおとれいと の父の動物としてのオスの振る舞いのピエロ以上に愚かな道化を道化とも自覚しない、一匹のオスでしかない ぽおとれいと の父がそのオスの振る舞いの中で、「望み」を、仮象でしかない地獄の中で、オロカに持ちつづけている事を、あえて、全く、どんな下手な役者でさえ演じられっこないドヘタな演技でもって、泥沼に嵌まって行く ぽおとれいと の父に、更に更に、そのメスガキは、深く深く沈んでゆく。しかし、そのメスガキは、その沈んでゆくのを泳いでいる、と思いたいのである。

翻訳:John Ubel

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テーマ:海外小説・翻訳本 - ジャンル:小説・文学

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