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Aska Temple

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媒介を犠牲とした共同性の残虐を二度と繰り返さないために

媒介を犠牲とした共同性の残虐を二度と繰り返さないために
─ 弁証法の現実的応用の残酷性 ─

1.「共同性の地平を求めて」について

 映画、「共同性の地平を求めて」は、荻原勝氏を媒介とした能勢伊勢雄監督自身の成長史として、荻原勝ドキュメントとして撮られた、能勢伊勢雄氏自己成長ドキュメントである。
 1968年から’75年までの荻原氏を追うカメラは、次第に、少年ぽさを残す無邪気とも言って良い一青年である、荻原氏の対談者としてチラチラ画面に登場する能勢伊勢雄氏を、最後の’75年の段階で、主人公である荻原氏以上の存在感、既に大人として成長した、その重ささえをも感じさせる存在を映し出す。
 多くの観客は、2時間に及ぶドキュメンタリーの最終局での、撮る側と、撮られる側の存在感の逆転を、冷徹に流れるフィルムの上に見る。

 私は、この映画の編集において、能勢氏自身が、客観的歴史観の具体的映像として、あくまで方法的実験ドキュメンタリーを意図的に完成させていたのど、と思いその弁証法の見事な映画の応用例に感嘆せざるを得なかった。
 が、しかし、人間「能勢伊勢雄」個人の冷徹性に、ある種の非情を感ぜざるを得なかったのである。

   <「非情の哲学」───────────────

      ヘーゲル哲学者、武市健人の一著作の題名は、

      若き日の私を震撼させるのに充分だった。  >


 そう、弁証法的歴史観は、非情である。個は媒介によって無化し、ある種のものが生成する。1つの死が、ある大きな生を呼ぶ。1つの生は、ある小さなものの死を犠牲にして生成する。

  「一粒の麦 もし地に落ちて死なずば唯一にてあらん。もし死なば

   多くの実を結ぶべし」  ─ヨハネ伝第12章24節


 ジイド、ドフトエフキイ、エンゲルス、何人の著述者がこの言葉を引用したであろう。
 しかし、天国を約束する死を説くイエス、と、その神の国を意識するジイドとドフトエフスキイ、ユートピアを信ずるエンゲルス。しかし、彼らは、果たして天国を約束できるのか?


 この弁証法は、
        「死」を媒介として
                 天国を保証する
                        殺戮の論理ではないのか?

 誰もが、「共同性の地平を求めて」を観た後、深い不快感に身を重くする。
かつては、それが敗北の象徴として、岡山を去ってゆく荻原氏の姿にであったであろう。しかし、1997年に再上映された時に観た、’75年に、9歳や10歳であった我々にとっての不快感は、1人のドイツ語講師の知性を媒介として成長した一監督が、酔いつぶれる荻原氏を前に、かつて無邪気に彼の語りに耳を傾けた青年が、一人の大人として冷徹に荻原氏を見つめ、その風景のリールが流され続けられている事への不快感である。

 「一人にならん!」と、泣く井沢氏の姿もまた能勢伊勢雄氏は冷徹にリールを回す。しかし、私が5歳や6歳の時、1971年か’72年の頃である。既にたった一人で幼稚園の保母に向かって椅子を投げていた幼児であった私より、この大学生は孤独が恐ろしいのであろうか?
 孤独に’80年代の少年期を生き抜いた同世代の誰もが、口にこそ出さない“ゼンキョウトウ”を静かに見る。その事自体が不快であるのだ。



2.「自同律の不快」について

 約半世紀に渡って、ある種の若者達が支持し続けてきた、「死 霊」の主人公、三輪与志の「自同律の不快」は、弁証法的思考に対する静かなる、絶対的拒絶によって私達(多くの彼等もまた)を魅了し続けてきた。

 「私は私である」事の不快は、単に、デカルト的自己に対する再懐疑であり得ない事は、彼等がよく知っている。
 むしろ、「私は私である事の不快」は、常に、矛盾律、そして、その止揚としての、「他 を 内包した 自己」として生成する事を、欲するが故に、不快なのであり、それ故三輪与志は、自己から全くの一歩も踏み出さない。

 三輪与志が、多くの自称インテリ達ががなり立てる弁証法に拒否感を覚えながらも、自己の中に他を内包せざるを得ない多くの青年達の中で、永遠の観念的英雄であったのは、彼等が、雑踏の中で、ゲバルトの中で、そして日々の糧を得るための労働の中で、自己が穢らわしい他を内包させ増殖させ続けざるを得なかったからに他ならない。



3.宇宙史における、個の殺戮の完成体としてのユートピアとは?

 媒介を犠牲とした共同体とは、保証された天国への殺戮の論理によって成り立つユートピアである。



 しかし、一体  それが   何   だと いうのだろうか?



 宇宙史における、地球の自然史の食物連鎖の連続が、人間の精神における侵食連鎖の弁証法的回転運動の帰結として設定された、「自己」の全殺戮段階に過ぎないのである。

 それは、地球の自然史の中で、「人間」という種が滅ぶ自然史の単なる一点に過ぎない。


 宇宙は、「知ったこっちゃない」   のである。


 「どうでもいい」  ただ  それだけのことである。


 だ い た い  人間が死のうが生きようが  宇宙 は  知らない。


 宇宙は慈悲も情けも無い。  ただ  天体の運動だけが  有る。



4.媒介を犠牲とした共同性の残虐を肯定する者




  イエス.      イエスは、  天国を   保証する。


  しかし、我でない我が、彼の地で実を結んで


  一体   何の   幸福   が   あろう?


  「幸福」.   我 は   「幸 福」  を望むのか?


  否. 我が我であるためには苦痛を.


     我が我であり続けるためには、


     我が他の穢らわしい他のなにものをも内包せずに


     済むならば


     お前が地獄と呼ぶ  駅に向かうためへの


     お前達とは正反対のベクトルの


     死を選ぶ




  自己の死滅する世界.


     人間の消滅する、  人間でない


      何ものかの世界。


        全人間的自己の殺戮の末の国





  彼の地を望むものは望め
















           亡者達は


           私をお前達とは正反対の過去の亡者の王国へと導く































沈   思























    48 時 間




















自己の頭蓋内の応答
































5.     天     道     不     仁






   天道は 不仁であり、   不仁である世界において.



     私においても、



     N氏においても、



     O氏においても、



     YKさんにおいても、



    天道は、全く同じく不仁である。



    宇宙は  法  であり.



    その法則性そのものを、



    如何に形容しようが、



    宇宙 は  法  そのものであり続ける。















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