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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part13

ヘーゲル「精神の現象学」B 自己意識 IV 自分自身だという確信の真理 Die Wahrheit der Gewissheit seiner selbst  (一)(二)


「対象についての、最初の直接的な『表象』は経験のすすむにつれて己れを止揚するのであり」
   「かくて、確信は、真理のうちに、消え失せたのである。」
「自我は、他者に対立して、自分自身であると同時に」
   「この他者を越えて、包みもしており」
   「したがって、他者は、自我にとっても、また、まさに、自分自身であるにすぎぬのである。」

(一)先行形態と自己意識

  「かくして、『我々』は、自己意識(の段階)にたどりつくと共に、真理の郷土的な国に歩み行ったのである。」

  「私念の存在、知覚の個別態と、これに、対立する普遍態」
  「それから、また、悟性の空虚な、内なるものは、もはや、実在としてではなく」
  「自己意識の諸契機として、あるのであるが」

  「しかし、自己意識とは、じっさいにおいては、感覚的な、知覚的な世界の、存在から反省することであり」
  「本質的に、対他存在から還帰することであるから」
  「自己意識が、自己意識であるのは、運動としてのことである。」

  「だから、自己意識に対しては、ひとつの存在としての、対他存在があることになり」
  「その認むるところとなるが」
  「これが即ち、区別された契機(の第一)である」
  「自己意識に対しては、この、区別されたものと、自己自身との、統一もまたあるが」
  「これが、第二の、区別せられた契機である。」

  「そこで、自己意識の現象と、真実態との、対立が、生じてくるが、この対立は、ただ、真実態のみを、即ち、自己意識の、己れ自身との、統一のみを、本質として、もって
   いる。」
  「そこでこの統一が、自己意識にとって、本質的とならさざるをえないが」 
  「このことは、自己意識が欲望一般であることを、意味している」
  「だから、自己意識としては、意識は、今や、二重の対象をもつことになる。」
  「一方の対象は、直接的な対象であり」
  「感覚的確信と知覚の対象であるが」
  「これは、自己意識にとっては、否定的なものの性格を刻印せられている。」
  「自己意識がもつ、第二の対象と、言うのは、即ち、自己自身のことであり」
  「これが、真実の本質であるけれども」
  「この第二の対象も、さしあたっては、第一の対象との対立においてあるにすぎない」
  「この対立において、自己意識は、運動として、現れてくるが」
  「この運動において、対立が、止揚せられて、自己意識には、己れ自身との統一が、生成してくるのである。」


(二) 生命

  「自体的には、対象も、自分のほうでは、やはり、自分のうちへ還帰している。」
  「かく、自分のうちへ、還帰していることによって」
  「対象は、生命となっている。」
  
  「そこで、直接的な、欲望の対象は、生命あるものであるが」
  「即ち、悟性が、諸物の、内なるものへ、関係することによって、えられた、自体、ないし、普遍的な結果というのは」
  「区別せられえぬものを、区別することであり」
  「区別のあるものを、統一することであるが」
  「この統一もやはり、己れから拒斥するので」
  「統一というこの概念は、二つに分かれて、自己意識と生命との対立となるのであるが」
  「前者は、区別の『無限』な統一であることを、自覚している統一であり」
  「これに対して、後者は、ただ、この統一自身であるにとどまって、同時に、この統一たることを、自分では、自覚していない統一である。」

  「さしあたって、欲望であるところの、自己意識は、むしろ、対象の自立性を、経験することに、なるであろう。」

  「(第一に)本質であるものは、あらゆる区別項が止揚されてあることとしての、無限性であり」
  「運動ではあっても、純粋な軸回転運動であり」
  「絶対に、不安定な無限性でありながら、自分自身安らいであり」
  「運動にさいして、の区別項を、解消させているところの自立性自身であり、空間としてのしっかりとした形態をも具えていながら、時間の単純な本質として、自同的であるも 
   のである。」
  
  「(第二には)区別項は、この、単純で、普遍的な、媒体において、あるにしても、やはり、区別項として、存在する。」
  「なぜなら、この普遍的な流動性が、その否定的な本性を持っているのは」
  「ただ、それが、区別項の止揚であることにのみよっているが」
  「もし、区別項が存立をもっていないとすると」
  「この流動性とても、区別項を、止揚することはできないからである。」
  「だが、まさに、この流動的こそ、自同的な自立性として、それ自身」
  「区別項をして、存立させるものであり、言いかえると、区別項の基礎に立つ実体であり」
  「したがって、この実体においては、区別項は、区別せられた、分肢として、また、各自自分だけである部分として、存在する。」


  「だから(第三には)(分肢の)存在と言っても、もはや、存在だけを、抽象したものを、意味するのではないし」
  「また分肢に純粋本質態と言っても、普遍性だけを、抽象したものを、意味するのでもなく」
  「分肢の存在が、そのまま、純粋な、自己内運動のかの単純で、流動的な実体なのである。」

  「無限性ないし、純粋運動の、諸契機がもつ、限定においてのことであて」
  「これ以外の、いかなる限定においてのことでもない。」

  「自分の自分だけでの、存在の止揚だからである。」

  「しかも、よってもって、自分が、自分だけで、存在するこの対立を止揚する、ゆえんである。」

  「自分だけで、存在するものも、自体的には、単純な実体であるから」
  「この自分だけで、存在するものが(自分を、止揚するための単純なものとしての)自分のうちに(実体を)他者として、定立するときには、自分の(本質としての)かかる
   単純態を、言いかえると、自分の本質を止揚することになるのであるが」
  「これは、自分だけで、存在するものが、自分の単純態を、分裂させることを、意味しており」
  「そうして、かく区別のない、流動性を、分裂させるものであると、同時に、こうして、存立するようになっている、区別項を解消するものでもあるが」
  「しかし、分裂を解消することもまた全く同様に、分裂することであり」
  「分肢することである。」

  「生命をなしているのは、己れを展開し、この展開を解消するという、運動のさなかにおいて、己れの単純態を維持しているところの全体なのである。」






  

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