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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part12

ヘーゲル「精神の現象学」 A 意識  III 力と悟性、現象と超感覚的世界 Kraft und Verstand, Erscheinung und ubersinnliche Welt.(三) (四)

III 力と悟性、現象と超感覚的世界


(三) 無限性

   「超感覚的世界の一方の側面の本質をなしているものは、顛倒であるが」
  
   「思惟せられる、必要のあるのは、純粋な、交替、或は、己れ自身における対立であり、矛盾なのである」

   「顛倒せられた世界であるところの、超感覚的世界の場合も同様であって」
   「この超感覚的世界は、同時に、他の世界を越えて、包み」
   「それ自身において、この他の世界でもある。」
   「この超感覚的世界が、それ自身、顛倒せられた世界であり」
   「即ち、己れ自身の顛倒である。」
   「超感覚的世界が、自分自身であるのと、反対の世界でもあるのとは、ただ一つの統一におけることである。」
   「ただ、かくしてのみ、超感覚的世界は、内的な区別としての、或は、自ら自体的な区別としての、区別であり、言いかえると、この世界は、無限性として、あるのであ
    る。」

   「かくて。これらの部分は、肯定的なものと、否定的なものとして、相互に、活をいれられ(精神化せられ)ることになり」
   「それらの、『存在』とは、むしろ、各自が己れを非存在として、定立し、統一のうちに、己れを止揚することである。」
   「区別された両者は、共に、存立し、それぞれ自己によって、存在し」
   「しかも、自己によって、互いに、対立したものとして、存在するが、このことは、両者が各自に、自分自身の正反対であることを」
   「両者が、各自に他者を自分で具え、そうして、ただ一つの、統一をなすにすぎぬことを意味しているのである。」

   「この単純な無限性、言いかえると、絶対的概念は、生命の単純な本質、世界の霊魂、普遍的な血と呼ばるべきものであるが」

   「即ち『どのようにして、この純粋な実在から区別ないし、他的存在がきたるのか、この実在から、そのそとに出てくるのか』と、我々が、問う必要はないのである。」


   「したがって、己れ自身と、同じであるものが、二つに分かれるというのは」
   「それが、まさに、すでに、二つに分かれることによって、生じたものとしての、己れを」
   「己れが他的存在であるのを、止揚することをも、意味するのである。」

   「だから、二つに分かれることと、己れ自身と、同じになることとの、区別もまた、このような自己止揚の運動にほかならないのである。」

   「したがって、自分の二つに分かれたものであることの、止揚だからである。」                   


   「言いかえると、むしろ、二つに分かれたものと成るのである。」


(四) 総括

   「無限性、言いかえると、例えば、『存在』としてというような、何か、或る仕かたで限定せられているものが、むしろ、限定の正反対である、という、純粋な自己運動の
    絶対的動揺は」
   「もちろん、これまで、述べたことすべてのすでに、魂ではあったが」
   「しかし、この無限性自身が、自由に顕現したのは、内なるものに至って、初めてのことである。」
   「現象、言いかえると、両力の遊戯もすでに、この無限性自身を表現してはいるが、しかし、説明の段階に至って、初めて、無限性は、自由に顕現し」
   「そうして、最後に、無限性が意識に対して、それがまさに、そうであるものとして、対象であるときには」
   「意識は、自己意識である。」
   「悟性の説明は、さしあたっては、ただ、自己意識の何であるかの記述をなすにとどまっている。」

   「悟性は、これらの区別項を止揚して、力という、ただひとつの統一のうちに定立する。」

   「かかる運動、或は、必然性は、また、悟性の必然性であり、悟性の運動であり」

   「じっさいには、悟性は、ただ、自分自身にだけ、関わっているのである。」

   「第一の法則の顛倒としての、反対の法則においては、なるほど、無限性自身が、悟性の対象となりはするけれども」
   「しかし、同名のものが、己れ自身を、拒斥すること、及び、不同のものが、相引くことである、自体的区別を、悟性は、再び、二つの世界、或は、二つの、実体的境地に、
    割り当てるから」
   「悟性は、無限性を、無限性そのものとして、とらえることには、再び失敗する。」
   「無限性という運動は、悟性の経験のうちには、ありはするけれども」
   「この経験のうちにあるかぎりの、運動は、悟性にとっては、此処では、ひとつの『出来事』であり」
   「『同名のもの』とか『不同のもの』とか、言っても、それぞれ、述語(附加語)であって」
   「これの本質は、存在している、基体なのである。」
   「かく、悟性にとっても無限性は、対象ではあっても」
   「この、同じ、無限性が『我々』にとっては、純粋概念として、その本質的な形態においてある。」

   「意識は自己意識なのである」
   「私(自我)が私を、私自身から区別するが」
   「区別しながら、この区別されたものが、区別せられていないことが、無媒介に私に対してあり」
   「私の認めるところである。」
   「私という、同名のものが、私を、私自身から、拒斥するが」
   「私にとって無媒介に、なんら区別ではないのである。」
   「いったい他者ないし対象一般の意識というものは、もちろん、それ自身、必然的に、自己意識であり、己れのうちに還帰してあるものであり」
   「他的存在のうちに、自己自身を意識するものである」

   「自己意識は、やっと、自分だけで、生成しているのであって」  
   「まだ、意識一般との統一としては、生成してはいないのである。」

   「悟性が、現象の内なるものにおいて、経験しているものは、ほんとうは、現象自身以外のものではないが」
   「しかし、『現象』と言っても、これは、両力の遊戯として、あるようなものではなく」
   「絶対に、普遍的な、諸契機とその運動とにおける、この遊戯のことであり」
   「したがって、悟性は、現象の内なるものにおいて、ただ自分自身だけを、経験しているのである。」

   「この運動を通じて、私念と知覚と悟性という意識の諸形態は、消えうせたのだからである。」

   「意識が己れ自身を知っているときに、何を、意識が知っているかについて、認識するには、さらに、一層の委曲をつくす、必要があるということであるが」
   「この点を詳しく解明するのは、今後のことである。」
  

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