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Aska Temple

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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part8

ヘーゲル「精神の現象学」 A 意識 I 感覚的確信、或は「このもの」と私念 Die sinnliche Gewissheit;oder das Diese und das Meinen.


「最初に、或は、直接的に、『我々』の問題であるところの知とは」
 「それ自身、直接的な知であるところの、知、即ち、直接的なもの、或は、存在するものの知以外のものでは、ありえない。」

 「即ち、この確信が、自分の知っているものについて、言っているのは」
 「ただ『それが存在する』ということだけであり」

 「この確信においては、自我は、ただ、純粋な『このひと』としてあるにすぎず」
 「そうして、対象もやはり、ただ、純粋な『このもの』として、あるにすぎない。」

 「即ち、意識は、自我であり、これ以上のなにものでもなく、純粋なこのひとであり」
 「そうして、個別的なひとが、純粋な「このもの」を、言いかえると、個別的なものを、知っているのである。」

 「現実的な、感覚的確信というものは、ただ単に、純粋存在という、純粋な直接態(無媒介態)にとどまるのではなくして」
 「この、直接態の実例でもあるが」

 「自我は、他者を介して、即ち、事柄を介して、確信のうちに、あるのである。」


(一)この確信の対象

 「かく本質と、実例との、無媒介と、媒介態との区別があるが」

 「『我々』は、それを、感覚的確信自身において、見出すのである。」

 「ところで、この確信においては、一方のものは、単純な、無媒介に、存在するものとして、或は、本質として、定立せられているが、これが、即ち、対象である。」
 「これに対して、他方のものは、非本質的なものとして、確信において、自体的にあるのではなく、他者を介して、ある、媒介せられたものとして、定立せられているが」
 「これが自我であり、ひとつの知であって」
 「知とは、対象が、存在するが故に、のみこれを知るものであり」
 「そこで、存在することも、存在しないことも、ありうるものである。」

 「知のほうは、対象が存在しない、ときには、存在しないものである。」

 「感覚的確信が、具えているがままの姿において、対象を考察するに、とどめなくてはならない。」

 「このものならぬ、ものでありながら、それでいて、全く一様に『このもの』でも『かのもの』であるところの、単純なもの、我々は、これを、普遍的なものと呼ぶのである。」

 「我々は、この感覚的確信において、私念している通りには、決して、言わないのである。」
 「しかし、言葉は、我々の明らかに見るように、私念よりも、一層真実なものであり」
 「言葉において、我々は、自分の私念を、自分で即座に、反駁するのである。」

 「我々が、自分の私念している、感覚的な存在を、かりそめにも言いうるということは、全然可能ではない。」

 「感覚的確信の真理をもって、普遍的なものであるとは、思わない、我々の私念だけである。」

 「確信は、私念のうちにあり」
 「対象は、自我が、これについて、知るから、存在するのである。」

(二) この確信の主観

 「かくして、感覚的確信の真理の、真理たる効力は、いまや私(自我)のうちに」
 「私が、みること聴くことなどの、直接態のうちにあり、」
 「我々が、私念するところの、個々の今と此処との消失が阻止せられるのは」
 「私が、これらを、固持することによっている。」

 「このさい、消失しないのは、普遍的なものとしての私(自我)であり」
 
 「すべてのこのもののことであり」
 「すべての、此処」
 「すべての個別的なもののことである。」

 「彼らの私念しているのは、いったいいかなるこの物ないし、いかなる、この、私のことであるかを、言えと、きめつけるのは」
 「正当なことであるが」
 「しかし、彼らが、これを言うことは、不可能なのである。」

(三) 主客関係としての確信

 「だから、感覚的確信は、自分の本質が、対象のうちにあるのでも」
 「私(自我)のうちにあるのでもないことを」
 「また(本質であるはずの)直接態が、対象の直接態でも、私の直接態でも、ないことを、経験するのである。」

 「私の私念するところのものは、むしろ、非本質的なるものであり」
 「対象も、私も、普遍的なものであり」
 「そうして、これらの普遍的なものにおいては、私の、私念する、当の今も、此処も、存続せず」
 「言いかえると、存在するのではないからである。」

 「私念される此処は、点でもあるであろうが、点は、存在するのではない。」
 「この点が、存在するとして、指摘されるとき」
 「この指摘自身が、自分は、直接的な知ではなく」
 「私念された、当の此処から、多くの此処を通じて、普遍的な、此処にまで、至る運動であることを示す。」
 「そうして、この普遍的な此処とは、一日が、今の、単純な数多性であるがごとく、此処の単純な、数多性である。」


(四)総括

 「感覚的確信の弁証法が、この確信の運動、ないしは、その経験の簡単な歴史(出来事)以外のものではないこと」
 「いな、感覚的確信自身が、この歴史であるにすぎぬもの以外のものではないことである。」

 「感覚的対象の実在性が、真理であり、確実であると、主張する人々に向かっては」
 「彼らは、智慧の最下級の学校」
 「即ち、ケレスとバックゥスとについての、古のエレウシスにおける、密議に、送り返されて」
 「先ずもって、パンを食らい、ブドウ酒を飲む、奥義を、学ぶべきである、と、言ってよいであろう。」

 「彼らは、もろもろの、外的な対象の定在について語るが」 
 「これらは、より、厳密に言えば、現実的な、絶対に個別的な、全然個人的な、個別的な物であり」
 「おのおのがもはや、絶対に、同一のものをもたぬ、諸物と規定せられうるであろう。」
 「そうして、彼らは、かかる物の、定在が、絶対に、確実であり、絶対に、真理である、と、唱えるのである。」

 「私が、ひとつの、個別的な物と、言うときにも、全く、同様に、私は、その物のことを、むしろ、全く普遍的なものとして、言っている。」
 「なぜなら、いっさいのものが、個別的な、物だからである。」

 「ところで、語るということは、私念を、即座に転じて、或るものとなし、」
 「かくして、私念に、全然、発言もさせない、という神的な本性のものであるが」

 「それを、私は、真にとらえ(知覚する)こととなるのである。」
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