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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part7

ヘーゲル「精神の現象学」第一部 意識経験の学 緒論

緒論Einleitung


一 絶対者のみが真なるもの、真なるもののみが絶対

  「この結論は『絶対者のみが、真なるもの、言いかえると、真なるもののみが絶対』である」

二 現象知叙述の要

  「「この『己れ』とは、真実ならぬ知において、ある、己れの様態のことであり」
  「したがって、己れの存在の、悪しき様態に、訴えることになり」
  「即自且つ対自にある、己れにというよりか」
  「むしろ、己れの現象に、訴えることになるからである。」

  「此処に現象知の叙述が、企てられなくては、ならないのである。」

三 叙述の方法

(一) 進行の仕かたと必然性

  「魂(ゼーレ)が、己れの本性によって、予め、もうけられている、駅々としての、己れの一連の形態を、遍歴して行き」
  「その結果、己れ自身を、あますところなく、完全に、経験することによって」
  「己れが、本来、己れ自身において、なんであるかについての、知に到着して」
  「精神(ガイスト)にまで純化せられるさいの、道程であると、この叙述は見なされる事が、できるのである。」

  「自然的意識は、自分が、知の概念であるに、すぎないことを」  
  「実在知ではないことを、自証するであろう」

  「この道程は、徹底的に完遂される、懐疑主義である。」

  「かかる、虚栄心は、普遍的なものを避けて、ただ、自分の孤立存在だけを、求めるものだからである。」

(二) 知と真

  「知は、我々の対象であり、知は、我々に対してある。」
  「そこで、探求の結果として、知の自体が、生ずると言っても」
  「この自体は、むしろ、知の我々に体する存在であろう。」

  「意識は、一般に、知の契機という、限定を、具えてはいるが」
  「しかし、同時に、意識にとっては、この『他のもの』は、ただ、単に、意識に対して、あるに、とどまるのではなく」
  「この、関係のそとにも、言いかえると、自体的にもある」
  「これが、即ち、真という、契機である。」

  「即ち、概念と対象」
  「対他的に、存在することと、自ら、具体的に、存在することという、これら、諸契機が、我々の探求する、知ること自身のうちに属しており」
  「事柄を、即自且つ、対自的に、あるがままの姿において、考察することに、我々は、達するのである。」

(三)経験

  「意識は自分自身において」
  「即ち、自分の知においても」
  「自分の対象においても」
  「弁証法的な運動を行うのであるが」
  「この運動から、意識にとって、新しい、真実の対象が、発展するかぎり」
  「この運動こそ、まさに、経験と呼ばれているものである。」

  「さて、意識は、或るものを、知るが」
  「この対象が、実在、ないし、自体ではある。」
  「しかし、この対象は、意識に対しても、また、自体であるから」
  「これによって、この『真なるもの』がもつ、二重の曖昧な意義が、はいりこんでくる。」
  
  「今や意識は、二つの対象をもっっており」
  「その、一方の対象は、最初の自体であり」
  「第二の対象は、この、最初の、自体の意識に体する、存在である」

  「意識の運動のうちに、自体存在ないし、我々に対する、存在、という、ひとつの契機が、介入してくるが」
  「この契機は、経験そのものに、没頭しているところの、意識に対しては、あらわれてこないものであり。」

  「この道程は、意識の経験の学である。」

  「この立場において、現象は、本質にひとしくなるから」
  「意識の叙述は、まさに、精神の、固有の立場と、一致することになる。」
  「そうして、最後に、意識自身が、(精神であるという)己れの本質を把握するときには」
  「意識は、絶対知自身の本性を示すであろう。」
  

  
  
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