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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part6

ヘーゲル「精神の現象学」 序文 四 (二)(三) 結語


四 哲学的思索

(二)否定的態度における論弁的思惟、肯定的態度における論弁的思惟、その基体


   「論弁は、虚ろな、自我のうちへの、還帰であり、反省であり、己れの知についての、うぬ惚れであり、虚栄でありことになる。」

   「この思惟の肯定的な、認識においえは、『自己』とは『表象』せられた基体(主語)のことであって」
   「これに、内容が、属性及び、述語として、関係して行くのであり」

   「こうして、内容は、じつは、もはや、基体(主語)の述語(附加語)ではなくして」
   「むしろ実体であり」
   「語られている当のもの(主語)の本質であり、概念である。」

   「表象的思惟は基体(主語)から出発するが」
   「しかし、述語こそ、むしろ実体であるから」
   「この思惟は、主語が、述語のほうに移行してしまい」
   「主語は、もうなくなっているのを、見出すのであり」
   「また、述語であるかに見えるものが、却って、全体としての独立の重みをもつものと、なっていしまっているから」
   「この思惟は、自由にあちこちと、うろつき廻ることはできず、むしろ、この重みによって、さまよいを抑止せられているのである。」

   「即ち、判断ないし、命題一般の本性は、主語と述語との区別をふくんでいるが」
   「この、本性は、思弁的命題によって、破壊せられるのであり」
   「最初の命題一般は、同一性命題に、なって行くのであるが、」
   「この、同一性命題が、命題一般の含むかの(普通の)関係に体する反撃(ショック)を含んでいるのである。」

   「主語と述語との、同一性が、命題の形式が、示している、両者の区別を、無にすべきではなくして」
   「両者の統一は、一種のハーモニーとして、出現すべきなのである。」

   「命題の中身を、区別する、アクセントのことであるが」
   「これに対して、述語がかえって、実体を表現し、」
   「主語自身が、(これを述語と共に含む)普遍者に帰するということは、統一であって」
   「ここでは、かのアクセントは、もう響かなくなるのであう。」

   「述語自身が、主語であること、存在であること」
   「本質(実在)であることが、言明されており」
   「しかも、この本質が主語の本性を、言いつくしているのだから」
   「思惟は、述語のうちにも、いきなり、主語を見出すのであり」
   「そこで、今や、思惟は、述語から、己れのうちに、帰って、論弁するものとしての、自由な位置を、獲得するのではなくして」
   「なお内容のうちに、没頭している。」

   「『現実的なものは、普遍的なものである』」
   「と、言われる場合も、主語である、『現実的なもの』は、その述語のうちに、消えて行く」
   「『普遍者』が、ただ単に、『述語』の意義を持つべきであるにすぎず」
   「したがって、この命題が『現実的なものは、普遍的である』ということを、言表しているのではなく」
   「普遍的なものは、現実的なものの、本質を、表現すべきなのである。」
   「だから、思惟は、主語において、もっていた、確固たる、対象的地盤を失っていると共に」
   「また述語において、主語に向かって、投げかえされて、いるのであり」
   「述語において(論弁のごとく)己れのうちに帰って行くのではなく」
   「内容の主語(主体)のうちに、帰って行くのである。」


   「この運動こそ、命題自身の弁証法的運動であり」
   「ひとり、この弁証法的運動のみが、現実に、思弁的なものであり」
   「そうして、ただ、この運動をいいあらわすことのみが、思弁的な叙述である。」

   「しかし、真なるものは、本質的に、『主体』であり」
   「主体として、真なるものは、ただ、弁証法的運動たるのみであり」
   「即ち、ただ、己れを生産して、先に、導いて行きながら、己れのうちに帰って行く歩みたるのみである。」

   「そこで、弁証法的運動自身について言うと」
   「その境地は、純粋概念であり」
   「したがって、弁証法的運動も、或る内容をもっているが」
   「この内容たるや、それ自身において、徹頭徹尾、主体である。」
   「だから、根底に横たわる主語としての位置をとり」
   「この主語に意義が、述語として、附け加わるというような、如何なる内容も、出現してはこない。」


(三) 健全な常識としての、また天才の霊感としての自然的な哲学思索


   「真実の思想と、学的な透見とは、ただ、概念の労苦においてのみ、かちえられるものであり」
   「ひとり、概念のみが、知識の普遍性を、生み出すことが、できるのであるが」
   「この『普遍性』は、普通の、普通の常識の、曖昧さと、貧弱さとではなくして、教養をつんで、完成した、認識のものであり」
   「また、概念の与える、知識の普遍性は、天才の怠惰と、自負とで、台なしにされつつある、理性素質の普通ならぬ、普遍性でもなくして」
   「土着固有の形式にまで、成熟した、真理のものである」
   「そうして、かかる、真理にして、初めて、すべての、自己意識的理性にとって『自分のもの』であることができるのである。」



結語 著者の公衆への関係

   「それは、じつは、純粋概念以外のなにものでもなかったと、解せられるうべき、時代もあった。」

   「まだまだ、やっと、特殊態に属している確信が、何か、ひとかどの、普遍的なものであることを、経験せんがために」
   「公衆をうる、という効果を、必要とすることも」

   「別する必要のあること、しばしばである。」

   「そうして、精神の普遍性は、その支配を、あくまで、全範囲に及ぼして、富を形成しようとし、また、これを要求してやまない。」
   

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