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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part3

ヘーゲル「精神の現象学」 序文 二 (三)

序文二 精神の現象学

(三)表象されたものと熟知されたものとを思想に転換すること、さらにこれを概念に転換すること

   「『そこ』に存在するもの(定在)を止揚するということであるが」
   「これに対して、まだ残っていて、一層高次の再形成を、必要とするものは、表象であり」
   「もろもろの形式を、よく熟知していることである。」

   「表象を、分析することとは、普通に、行われているようなものであっても、すでに表象の熟知されているという形式を、なくすることより、以外のものではなかった。」

   「分解の働きというものは、悟性という、最も驚嘆すべき最も大きい、或は、むしろ、絶対的な威力の勢力であり。」
   「わざである。」

   「これは、悟性が、この美に、その能くせざることを、要求するからである。」
   「しかしながら、精神の生というものは、死を避け、荒廃から、おのれを、清く保つ生のことではなくして、死に耐え、死のただなかに、己れを保つ生のことである。」
   「精神が、その真実態をうるのは、ただ、絶対の四分五裂の、ただなかに、ありながら、そのうちに、己れ自身を、見出すことにのみよっている。」

   「そうでなく、精神が、かかる威力であるのは、ただ、否定的なものを、面と向かって、まざまざと、見詰め、そのそばに、足を、止めることにのみよっている。」
   「しかし、この、足を止めるということこそは、否定的なものを、存在に、転換するところの、魔法の力なのである。」
   「魔法の力からこそは、さきに、主体と呼ばれたところのものと、同じものである。」
   「この魔法の力こそは、さきに主体とよばれたところのものと、同じものである。」
   「主体とは、限定に、おのれの場面のうちで、定在をあたえること」

   「ただもう存在するにすぎぬ、直接態を、止揚し、そうすることによって、真実の実体であるところのもの」
   「即ち、存在であり、無媒介でありながら、媒介を、己れの、そとにもつのではなく、却って、媒介そのものであるところのものであったが」
   「こういう主体と、右の魔法の力とは、同一のものなのである。」

   「表象せられていたものが、純粋自己意識にとっって『自分のもの』となること」
   「かく、普遍態一般にまで、高まることは、(表象を転換する作業の)ただ、一面であるにすぎないのであって」
   「教養(形式)は、これをもって、完成したわけではない。」

   「固定的な限定的な諸思想を、止揚することによって、」
   「普遍的なものを、現実化し、」
   「それを、精神に吹き込むのである。」

   「固定性を放棄する、こういう、運動によって、(悟性の)純粋な、諸思想は(理性の)諸概念となり」
   「諸思想は、此処に初めて、それらが、真実態において、そうであるところの、もの、即ち、もろもろの自己運動であり」
   「もろもろの循環であり」 
   「また、諸思想は、これらの実体が、そうであるところの、もろもろの、精神的な本質態である。」

   「この道程は、概念の運動によって、意識の、世界性を、その、必然性において、剰すところなく、包括することであろう」

   「精神の定在は、最初のものとして、直接的なもの、或は始め以外のものではなく」
   「しかも、この始めたるや、まだ、自己のうちにへの、還帰ではないところの、初めだと、いうことである。」
   「だから、直接的定在という境地ということが、学のこの部門を、其他の部門から区別する、所以の限定であることになる。」


   「精神の直接的な、定在である意識は、知ること、と、そうして、これに対して、否定的な、対象性という、二つの契機を、もっている。」

   「かかる道程の学は、意識は行う経験の学であり、」
   「ここでは、実体は、実体とその運動とが、どのように、意識の対象であるか、という観点から、考察せられる。」

   「経験のうちに、あるものは、実体は、実体でも、ただ、精神的な実体だけであり」


   「精神とは、己れにとって、他者、即ち、己れの自己の対象と、なりながら」
   「それでいて、この他的存在を、止揚するという運動だからである。」


   「およそ、直接的なもの、まだ、経験せられていないもの」
   「即ち、抽象的なものが(いったん意識にとって)己れから、疎外し」
   「しかる後に、この疎外から、己れに、還帰し」
   「こうして、今や、初めて、抽象的なものが、その現実態と、真実態とにおいて、表現せられ」
   「また、意識にとっても『自分のもの』となるところの運動」
   「まさに、この運動こそは『経験』とよばれるものにほかならないのである。」

   「かくして、実体は、自分が、本質的には、主体であることを、示すのであるが」
   「実体が、このことを、完全に示したとき」
   「精神は存在し、存在するがままに、己れの対象であり」
   「直接態という、また知と真との、分離という、抽象的な境地とは、克服せられている。」
   「存在は、絶対的に、媒介せられており」
   「自己的であり、即ち概念である。」
   「これをもって、精神現象学は完結する。」
   「精神が、現象学において、自分に、用意するものは、(絶対)知の境地であり」

   「そうして、諸契機が、この境地のうちにおいて、己れを全体にまで、有機的に、組織づけるところの、運動が、論理学、或は思弁哲学である。」



  

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