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Aska Temple

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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part2

ヘーゲル「精神の現象学」 序文 二 (一)(二)

二、精神の現象学

(一)絶対者は主体であること、そうして主体とはなんであるか


   「真なるものを、ただ単に、実体として、把握し、且つ、表現するだけでなく」
   「全く同様に、主体としても、把握し、表現する、ということである。」

   「生ける実体とは、存在ではあっても、真実には、主体であるところの存在」
   「或は、言いかえると、真実に、現実的であるところの存在であるが」

   「『即自』というのは、抽象的な普遍態のことであって」
   「対自的に存在するという『即自』の本性は、度外視されており」

   「真なるものは、全体である。」
   「しかし、全体とは、ただ、自己展開を通じて、己れを、完成する実在のことに、ほかならない。」

   「媒介とは、自己自身のうちへ、帰って行く反省のことであり」
   「対自的に存在する、自我という、契機であり」
   「純粋否定であり」
   「単純な成ること(生成)だからである。」

   「『理性とは、合目的な為すことである』」
   
   「この自分では、動かないで、他を動かすものとは、主体のことであり」

   「対自的に自分だけで、存在することであり」

   「主体は、固定な点(主語)であると、想定せられ」
   「これを、拠点として、もろもろの、述語が、くっつけられるのであるが」

   「精神的なるものは、(第一には)実在ないし即自的に存在するものであり」
   「(第二には、他者に)関係するものであり、限定せられたものであり、他的存在と、対自存在とであり」  
   「(第三には)かく限定せられており、言いかえると、己れのそとに、存在しながら、己れ自身のうちに、止まるものである。」
   「精神的なものは、即自且つ対自的に、存在するのである。」

   「かく展開して、己れの精神であることを、知っている、精神が学である。」
   「学とは、精神の現実態であり、」
   「精神が、自分自身の場面において、建てる、王国である。」

(二)知の境地(場面)、この境地にまで高めるものが精神の現象学であること

   「絶対の他的存在のうちにおいて、純粋に、自己を認識すること」

   「この境地は、単純な、直接態という様態を、もっている普遍的なものとして、純粋精神性であり」

   「この境地、精神の、この直接態は、精神の実体的なもの一般であるから」
   「この直接態は、直接態ではあっても、変容された、本質態であり」
   「反省でありながら、己れ自身のうちへの反省である。」

   「個人というものは、絶対的形式のものだからであり」
   「個人は、己れ自身についての、直接的な確信をもっている、ということになり」
   「個人は、無制約的存在だから、ということになる。」

   「かかる現実性を、欠いているときには、学は、ただ、即自的なものとしての内容であるに、すぎず」

   「この即自的なものが、おのれを、外化して、自分で、対自的と、ならなくては、ならないが」
   「これは、即ち、即自的なものが、自己意識をもって、己れと一なるものとして、定立することより以外のことを、意味するのではない。」

   
   「学の境地を生産するためには、最初の知は、長途の道を、通じて、労苦しなくては、ならない。」

   「(現象学においては)個人を、その教養せられていない段階から、(絶対)知に、導く、という課題が、その、普遍的意味において、把握せられなくてはならなかったし」
   「また、普遍的個人、自己意識的精神が、その教養の過程において、考察されなくてはならなかった」
   「(特殊的)個人と普遍的な個人という両者の関係ついて言うと」 
   「普遍的個人にいては、いかなる契機も、具体的形式と、独自の形態とをえた姿で現れてくるのに」
   「特殊的個人のほうは、不完全な精神であって、具体的形態ではあっても、この形態の、定在全体にわたって、ただひとつの限定だけが、主と、なっていて」
   「その他の諸限定が、現に、あるのは、かき消されてぼんやりした姿に、おいてであるにすぎぬ。」
   「そうして、或る精神より、高次の段階に立つ、精神においては、」
   「より低次の具体的定在は、ひとつの、目立たぬ契機におとされており」

   「かかる過去を、高次の精神をもって、自分の実体とする、個人が、遍歴するのではあるが」
   「このさい遍歴の仕かたは、より、高級の学問に取りかかる人が、自分のずっと前から、内面的にもち、マスターしているもろもろの予備知識を、その内容を、心にありあり 
    と、現前するために、ひとつひとつたどるがごとくである」

   「個人は、普遍的精神の、諸教養段階を、遍歴しなくてはならないけれども」
   「このさい、普遍的精神は、個人の実体を形づくり」  
   「したがって、個人にとっては、外面的のように、思われるところの、有機化されていない、自分の自然をなしている」

   「実体たる普遍的精神の側からすると」
   「この実体が、己れに自己意識を与え」
   「己れの生成と、自己内反省とを、生み出すことより以外のことではない。」

   「個人の実体は、まことに、世界精神でさえも」
   「諸契機という、これらの形式を、時の長き延長にわたって、遍歴することを、耐え忍んだのであり」
   「また、世界史の諸形式において、それぞれの能うかぎりの、全実質を、形成し出したという、巨大な労苦を、引き受けることを、耐え忍んだのであり」
   「しかも、世界精神は、これ以上の労苦をもってしては、己れのなんであるかについての、自覚に到達しえなかった。」

   「事は、即自的には、すでに、成就せられているからである。」

   「むしろ、すでに、内面化せられた、即自を対自存在の形式に転換することだけである。」
 

 

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