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カント「純粋理性批判」を読む Part22

カント「純粋理性批判」2.先験的方法論  第二章 第二節 第三節

第二章 
第二節 純粋理性の究極目的の限定理由としての最高善の理想について


    「思弁的使用における、理性は、経験界において、決して、満足を、見出しあたわぬがゆえに、かれは、経験の分野を、通り過ぎて、思弁的理念へと、われわれを、導い
     たのである」
    「しかるに、この理念なるものは、結局は、ふたたびわれわれを、経験に連れ戻すもので」
    「しかるに、この理性の意図を、遂行する仕方は、もとより、有益ではあるにしても」
    「決して、われわれの期待に添うものではない。」


    「実践的使用における、純粋理性も、見出されはせぬか」

    「私の、理性のあらゆる関心(思弁的および、実践的)は、次の三問題において、結合せられる
     一、なにを、私は、知りあたうか
     二、なにを、私は、なさねばならぬか
     三、なにを、私は、希望しうるか

    「第一の問題は、まったく思弁的である。」
    「第二の問題は、まったく実践的である」
    「先験的でなくして、道徳的である」
    「第三の問題はー実践的にして、同時に、理論的である」

    「私はこれを、道徳的世界と名づける」

    「この世界は、単に、可想的世界として、思惟せられる。」
    「しかし、実践的なる理念であって」
    「感性界に対しては、勢力を、有することが、できるし、また、有すべきはずである。」
    「道徳的世界という理念は、それゆえに、客観的実在性を有する」
    「道徳的世界の理念は、感性界における、理性的存在者の神秘的団体である。」

    「幸福であるのに、ふさわしくなるように行為せよ」
    「道徳的原理が、実践的使用における、純粋理性によって、必然的であると、同様に、各人が、幸福の享受に値する、行動をした程度に従って、幸福を希望する理由を、
     有すること」

    「幸福が(幸福であることのふさわしさとしての)道徳性と、厳密な釣合をなしているかぎりにおいて」
    「私は、最高善の理想と名づける。」

    「ライプニッツは、世界において、最高善の支配の下における、理性的存在者および、理性的存在相互の、道徳律に、従える、関連のみが、着目されるかぎり」
    「この世界を、恩寵の国と名づけ」
    「これを、自然の国と区別した」
    「かくして、恩寵の国においては」
    「あらゆる、幸福がわれわれを、待っているのであるが」   
    「この国にあることは、理性の実践的必然的理念なのである。」

    「この世界は、もとより、単に、可想的世界である」
    「なぜなら、感性界は、物の本性に関して、決してかくのごとき、目的の、体系的統一を、約束せぬからである」

    「この意志は、全能でなければならぬ」
    「全知でなければならぬ」
    「それは、永劫的でなければならぬ」

    「かくして、自然神学は、先験的神学へ導く」
    「後者は、最高の実体論的完全性の理想をもって、体系的統一の原理となすが」
    「この原理は、すべての、物を普遍的必然的自然法則に従って連結する」
    「なぜというに、物を、すべて、唯一の原体の絶対的必然性において、その起源を有するからである。」

    「けだし、独立的原因、すなわち、全智なる、世界支配者、という前提に、われわれを、到達せしめたものこそは、まさに、道徳律である」


第三節 私見 知識および信仰について


    「意見は、われわれの悟性における事象であるが」
    「その意見があらゆる理性者に対して、妥当する場合には」
    「それが、主観の特殊的性質の根拠を有するにとどまる場合には、」
    「これを、定見という」
    「それが、主観の、特殊的性質に根拠を、有するにとどまる場合には、これを、我見という。」
    「我見は単なる、仮象である」

    「意見すなわち、判断の主観的妥当性は(同時に、客観的に妥当するところの)定見に関して、三段階を有する」
    「私見と、信仰と、知識と」
    「私見というのは、主観的にも客観的にも、意識的に、不十分なる意見である」
    「意見が、主観的には、十分であるけれども、しかも、同時に、客観的には、不十分であるという場合には、これを、信仰という」
    「主観的充足性は(私自身にとって)定見といい」

    「純粋理性からなされる判断においては、私見を立てることは、断じてゆるされない。」

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