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Aska Temple

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カント「純粋理性批判」を読む Part16

カント「純粋理性批判」1.先験的原理論 第二部 先験的論理学 第二門先験的弁証論 第二篇 第三章 第六節 第七節 先験的弁証論付録

第三章
第六節 自然的神学的証明の不可能性について

     「かかる証明を、自然的神学的証明と名づけようと思う」

     「自然的神学的証明のみでは、決して、最高存在体の現存在は、説明せられない」

     「実体論的証明(これに対すれば、自然的神学的証明は、その序論に役立つにすぎぬ)に俟たねばならぬ」

     「自然的神学的証明の要点は、次のごとくである」
      (1)世界には随処に、詳しくいえば、内容の名状しがたき、多様性の全体においても、範囲の無制限なる、量の全体においても、一定の意図に従い、大なる知恵によ
         って、完成せられた、秩序の明瞭なしるしが存する
      (2)この合目的的秩序は、世界の諸物に対して、まったく疎遠で、単に偶然的に、それへ、従属した、換言すれば、種々なる物の本性は、もし、それが、秩序づける
         理性的原理によって、根底に存する、理念に、則って、まったく、特別に、そのために択ばれ、設計せられないならば、自らでは、多種多様な、結合の仕方によ
         って、一定の、究極的意図に、合致しあたわぬであろう。
      (3)してみると、産出によって、単に盲目的に、働く、全能な自然としてではなく、自由による、知性として、世界の、原因でなければならぬところの、崇高にして
         叡智的なる原因(あるいは諸原因)が、実在せねばならぬ。
      (4)原因の統一性は、技工的建築物の、部分として、世界の部分の、交互的関係の、統一性からは、われわれの、観察の、及ぶかぎりの、建築物においては、確実に
         推論されあたうけれども、それ以上は、類推のあらゆる原則に従って、蓋然的に、推論されることが、できる。


     「最高存在体としての、唯一的現存在体の、現存在に、関する、自然的神学的証明の基礎には、宇宙論的証明が存し」
     「しかも、この証明には、実体論的証明が、その根底に、存する」
     「そして、これら三種の道以外、いかなる道も、思弁的理性に対して、開かれておらぬゆえに」
     「総じて、もし、あらゆる、経験的悟性使用を、はるかに、超絶せる命題の証明が、可能的なりとすれば」 
     「純粋理性概念のみによって、なされる、実体論的証明が、唯一の可能的なる証明である。」

第七節 理性の思弁的諸原理にもとづくすべての神学の批判

     「私が、現存在体の認識を、名づけて、神学というならば」
     「それは、単なる、理性に基づく神学であるか」
     「あるいは、啓示に基づく神学である」
     「合理的的神学には、先験的概念のみを用い」
     「単に、純粋理性によって、その対象を(原体、最実在的存在体、いっさいの存在体の存在体として)考えるものと」
     「自然(われわれの心の)から、取られた、概念によって、その対象を、最高叡智者として、考えるものとある」
     「前者は先験的神学といわれ」
     「後者は、自然的神学と、いわれねばならぬだろう」
     「先験的神学のみを、認容する者は、理神論者と名づけられ」
     「自然的神学をも採用する者は、一神論者と名づけられる。」

     「先験的神学が、原体によって、表象するものは、単に、世界原因(その際、原体の本性上の必然性によるか、自由によるかは、未決定のままに残される)であるが」
     「自然神学のそれは、世界創始者である。」

     「先験的神学には、原体の原存在を、経験一般から(経験の属する世界については、なんら、詳しく規定することをせずして)導出せんとするものと」
     「少しの経験の助力を、求めることもなく、単なる概念によって、原体の原存在を、認識せんと、するものがある」 
     「前者は、宇宙論的神学といわれ」
     「後者は、実体論的神学と、いわれる」

     「自然的神学が、世界からそれへ、遡るところの、最高叡智者は、いっさいの、自然秩序と、完全性との原理としての、それであるか」
     「あるいは、道徳的秩序と、完全性との原理としての、それである」
     「前の場合には、自然的神学は、自然神学といわれ」
     「後の場合には、道徳的神学といわれる」

     「理性の自然使用の原理によって、神学へ到達することは、徹頭徹尾不可能である、ゆえに、もし道徳律が、基礎とせられ、手引とせられぬならば、一般に、理性の神学
      というものは、存在しえないこととなる」

     「なぜなら、客体の実存在という認識は、まさしく、客体が、思考そのものの、外において、独立に、定立せられる、ということにおいて、成立するからである。」

     「最高存在体は、理性の、単に、思弁的なる、使用に対しては、単なる、しかし、誤謬を、含まざる理想である」
     「この概念の客観的実在性は、もとより、この仕方では、証明されえないが、といって、否定されることもできぬ。」

先験的弁証論付録
純粋理性の理念の統制的使用について

     「理性は、決して、直接に、対象と、関係しない」
     「かえって、まったく悟性と関係し、悟性を媒介として、理性自身の経験的使用へ関係する」
     「したがって、理性は(客体の)概念を創造しない」
     「かえって、単に、客体の概念を、秩序づけ、これに、統一を与える」

     「悟性活動の、関与するのは、元来、部分的統一であるが」
     「理性は、全体的統一を、悟性活動の標的におくからである。」

     「理性は、特殊を、普遍から、導き出す、能力だとすると」
     「一方の場合においては、普遍が、すでに、それ自身確実で与えられている」

     「様々な、悟性認識の体系的統一、すなわち、理性統一、は、論理的原理である」
     「悟性のみでは、規則に、到達せぬ場合に」
     「理念によって悟性を助け」
     「悟性の諸規則の相違に対して一つの(体系的)原理の、もとにおける、一致と、それによって、関連とを、あたうかぎり賦与する、論理的原理である。」


     「すべての可能的悟性認識(経験的悟性認識をも含む)は、理性統一を有し」
     「かかる、主張は、理性の先験的原則であって」
     「体系的統一を、単に、方法として、主観必然的、論理必然的たらしむるのではなくして、客観的必然的たらしめるだろう。」

人間的理性の自然的弁証法の究極的意図について

   「最高叡智性の概念は、単なる理念である」
   「その客観的実在性は、概念が、直接に、対象へ関係する、という、点において、成立すべきではない」

   「純粋理性は、己れ自身とのみ、関係するものであって、それ以外には、なんらの営為をも、有することはできぬ」
   「なぜなら、純粋理性に与えられるものは、経験概念の、統一を受くべき、諸対象ではなくして」
   「理性概念の統一を受くべき」
   「換言すれば、原理における、関連の統一を、受くべき、悟性認識だからである。」

   「理性統一は、体系の統一である」
   「そして、この、体系的統一が、理性に対して、役立つのは、客観的にではない」
   「これを、諸対象に、およぼすための、法則としてではなくして、主観的にである」

   「第一 ー 世界と異なり、しかも、世界秩序と、普遍的法則に従えるその関連との、理由を含むものがあるか。」
   「疑いもなく」

   「第二 ーこの存在体なるものは、実体であるか、最大の実在性を有するか、必然的等々であるか」
   「この問はなんらの意味をも有せぬ」
   「けだし、私が、よって、もって、かかる、対象の概念を、構成せんとするところの、すべての範疇は、経験的以外には使用されえない」 
   「それが、可能的経験の客体、すなわち、感性界へ、適用せられぬ、場合には、まったく、意味を有せぬからである」

   「第三 ー世界と異なれる、この存在体を少なくとも、経験の対象との、類推によって、思惟することは、われわれに対して、許容せられるか」
   「もちろんであると」
   「それは、理念における対象としてであって、実在性における対象としてではない」


   「人間のあらゆる認識は、直感をもって始まり」
   「概念にすすみ」
   「理念をもって終結する。」


   

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