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Aska Temple

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カント「純粋理性批判」を読む Part1

カント「純粋理性批判」純粋理性批判ー成立の事情および第一版第二版論

 「物の認識、すなわち、われわれの表象と客観、概念と対象、との合致の根拠に関する問題」
 「第一版によれば、物体、あるいは、物質は、われわれの表象によってのみ、あるものであって、表象を離れては、無である。」
 「すなわち、超越的客観は、現象の根底に、存するものであるけれども、われわれには、不可認識なる、物自体であって、経験的客観は、先験的主観の立場に立てば、現象であるけれども、経験的主観からみれば、その表象ではない。」
 「私は、物自体(超験的客観)と現象(経験的客観)と、個人的表象、との区別を認める。」
 「外物が、われわれの外に、独立なる、存在を、保つものであると力説している。」 
 「外物は、表象から、独立せる、ものである、」
 「カントは、外物が、個人的主観の表象から、独立で、後者は、前者に依存することを、説いた。」
 「私が、いっさいの現象の、先験的観念論というのは、それに従えば、われわれが、現象を、すべて、単なる、表象(先験的主観の立場からいって)と看做して、物自体と看做さざる教説である。」 
 「この、持続的なるものの、知覚(経験的主観における)が、可能となるのは、私(経験的)の、外なる物によるので、あって、その単なる表象(経験的主観の)によるのではない。」
 「外物を、物自体と同一視したのではなくして、ただ、個人的主観から、独立である、と、解せられねば、ならぬ。」
 「世界は、先験的主観に対しては、物自体では、なくして、現象である。そして、物自体は、われわれの主観形式が、これに、妥当しないために、認識の対象と、なりえざるもので、ある相においては、空間中に現れざるものである。」
 「カントが、一方においては、客観的知識の可能性を基礎づけ、他方においては、、かれの思想の、基調をなせる、実在論的要求を、満足せしめんと、したのである。」
 「カントにとっては、外界が経験的にいって、実在的なることは、自明であって、」
 「かれの説は、先験的見地に立てる、観念論であって、経験的見地よりすれば、実在論である。」
 「現象は、単なる、表象であって、物自体そのものとは、看做されぬ、したがって、空間時間は、われわれの直感の単なる、完成的形式で、独立に与えられた、限定、すなわち、
物自体そのものとしての、客観の限定ではない。」
 「それが、存在せぬ、というのではなくして、われわれには、不可認識である。」
 「直感は、感性的であるがゆえに、その対象は現象だからである。」
 「空間時間は、先験的主観の形式である。
 「先験的観念論は、同時に、経験的実在論なることを力説して、」
 「先天的表象の客観的妥当性に関する、批判的問題である。」

カント「純粋理性批判」第一版序言


 カントが、純粋理性批判で、やろうとした事は、形而上学の、再構築である。

カント「純粋理性批判」第二版序言

 カントが、純粋理性批判 第二版を刊行した、当時、彼は、既に、64歳であった。

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