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アリストテレス「形而上学」を読む Part2

アリストテレス「形而上学」第10巻 第1章〜第3章

 「一と多」


 般若心経では、「色即是空 空即是色」と、説かれる。「物質は精神であり、精神は物質である。」という、意味である。西田幾多郎は、その、精神と、物質の円環関係の中心に、「絶対無」を、置いた。
 同じく、エルンストブロッホは、初期マルクスの形而上学に、唯心論と、唯物論の円環関係、精神と物質の円環関係と、記されてあるのに、着目し、その円環関係の中心に、SEINを、置いた。

アリストテレス「形而上学」第10巻 第4章〜第10章

 「反対性」


思想としてのDEEP PURPLE

 音楽が、何がしかの、文学的、哲学的、アプローチを聴くものに、行う事がある。ワーグナーは、そうだったし、「ツァラストラ」の音楽化もそうだった。ハードロックという、
如何にも、東西冷戦中、西側の音楽の象徴であった、ジャンルもまた、何らかの思想性を持っている。LED ZEPPELINの解散後、発表された、未発表音源集のタイトルは。「How the West Won」だった。エルンストブロッホは、旧ソ連や、旧社会主義国は、本来の意味での、社会主義ではない。本当の社会主義は、「未だ存在していない Noch-Nicht -Sein」と、説く。DEEP PURPLEやLED ZEPPELINのような、如何にも、西側の音楽のような、爛熟した、資本主義の、後に、本当の社会主義は、実現するのである。
 DEEP PURPLEは、クラシックとロック音楽を融合する、アルバムを発表後、ハードロックバンドに変貌する。当時の、ヴォーカルは、ミュージカル「ジーザスクライストスーパースター」で、クライスト役を務めた、イアンギランである。DEEP PURPLEのハードロックは、バロックやアラブ音階を、物凄い速さで、キーボードのジョンロードと、ギタリストのリッチーブラックモアが、ユニゾンで、演奏しまくる。或る意味、暴力的な、音楽である。日本公演LIVEより、シングルカットされた、「BLACK NIGHT」での、暴力的で、破壊的な演奏の、後、イアンギランが、観客に向かって、「GOD bless you!」と、叫ぶ。完璧なキリスト教の布教活動である。
 私は、13歳の時、DEEP PURPLEを大音量で、聴き、エレキギターで、DEEP PURPLEの曲を弾ける様になった時、仏壇に飾ってあった、昭和天皇の肖像写真を、庭に投げ飛ばした。DEEP PURPLEの音楽には、何がしかの、思想があり、それが、子供の頃の僕を、そうさせたんだと、思う。

アリストテレス「形而上学」第11巻 第1章〜第3章

「多くの類を異にする、諸存在について、どうして或る、ただ一つの学が、ありうるか?」


 私が、立命館大学夜間部に、通っていた時、或る日、共産党員の、女の子から、いきなり、
 「私、卒論で、レーニンの、唯物論と経験批判論、やんねん。現代のマッハ主義、けちょんけちょんに、けなしたいねん。あんた、フィリッチョカプラの『タオ自然学』持ってんねやろ?貸してよ!」と、絡まれた。俺は、
 「嫌や。お前、どうせ、俺の大事な本に、滅茶苦茶な、書き込み、すんねやろっ?大事な本、そんなんされたら、たまったもんじゃない。今でも、気の利いた本屋やったら、『タオ自然学』くらい、置いてるやろ?自分で買えよ。言うとくけど、マッハ主義を批判するためには、マッハ主義を理解せんなんあかんねで。お前に、アインシュタインが理解できるとは、思わんけどなあ。」
と、断った。

アリストテレス「形而上学」第11巻 第4章〜第12章


 「ヘラクレイトスと、アナクサゴラスの批判」

 ガザーリー著「哲学者の意図」は、西欧哲学を批判するために、「哲学者の自滅」の、準備として、まず、西欧形而上学を、理解するための、著書である。目次を観る限り、西欧形而上学のエッセンスを、うまく、整理整頓されてある。
 イスラム教では、モーゼもイエスキリストも、預言者の一人である、と、認める。ムハメッドが、最期の預言者なのである。このように、イスラーム世界は、他の文化に対し、寛容である。(放送大学「イスラーム世界」講義 後藤あきら より)
 何物かを、批判するためには、それを、理解しなくては、ならない。なんの理解もしていないのに、そのものを批判するのは、無知蒙昧である、と、ガザーリーは語る。

アリストテレス『形而上学」第12巻 第1章〜第3章


 「この、研究は、実体について、である。けだし、ここで、探し求められている、原理、原因は、実体のそれらだからである。そして、そのわけは、もし、存在する、すべてが、或る、全体的なものであるなら、実体こそは、その第一の存在であって、その次は、性質としての、存在、その次は、量としての存在であろうから。」

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