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Aska Temple

All about John Ubel and Aska Temple

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アリストテレス「形而上学」を読む

アリストテレス「形而上学」第1巻〜第3巻

昔、学生時代。社会科学研究会で、エンゲルスの「フォイエルバッハ論」の読書会があり、フォイエルバッハを、唯物論の英雄として、祭り上げ、社会運動思想ではない、と、けなし、だから、哲学はいらない、これからは、経済学だ。という、エンゲルスの暴論のような、薄っぺらいパンフレットなのだが、経済学部の連中は、「だから、哲学なんて要らないんだ」と、ぬかしやがるので、アリストテレスのレジュメを発表し、みんなを混乱させてやった。
 フォエルバッハは医学者であり、だから唯物論の方法を取り、「解体新書」みたいな
本を書いただけであり、フォイエルバッハの思想は、神を否定するものではない。エンゲルスの言っている事は、お門違いもいいとこだ。
 ところで、アリストテレスの「形而上学」を、読み始めた。ギリシア哲学の総括のような本で、第1巻から第3巻を読んだ限り、あらゆる、ギリシア哲学の問題点を、これ一冊で、解決しようとする、野心作なのだ。いままで、ギリシア哲学は、断片的な知識しか、なかったが、この本を、一冊読み終えた頃には、かなり、ギリシア哲学の全体像を、掴む事ができるだろう。良書である。

アリストテレス 「形而上学」第4巻

 まるで、ギリシア哲学全体の総括のような、この本であるが、この第4巻では、「あって、あらぬ」という、詭弁家の在り方を。アリストテレスは、痛烈に批判する。
パルメニデスや、ヘラクレイトスまでもが、アリストテレスの批判の対象である。彼のこの「形而上学」での、ギリシア哲学の総括がなかったら、その後の哲学史は、なかっただろう。

アリストテレス「形而上学」第5巻第1章〜第12章

 私は、立命館大学で、日下部教授という、ギリシア哲学の先生の、講義を受けている。ヨーロッパと日本を、行き来している、大変忙しい教授で、前期だけ受けた。内容は、ギリシア哲学の概要。試験問題は、パルメニデスとヘラクレイトスについて書け、というもので、私はAを取った。
 退学後、カントの純粋理性批判を英書で、17年かけて読み切った。在学時代半分くらいは、読んでいたが、37歳までかかった。ハイデッガーのSEIN UND ZEITも、まだ、ドイツ語で講読中である。あと、もう少しで終わりそうだが、26年かかっている。ヘーゲルの精神現象学に至っては、26年経った今でも、まだ、半分しか、ドイツ語原書講読ができていない。ドイツ語はドイツ語で愉しむのが、いくら時間がかかっても、私の流儀である。哲学や文学なんて、一生やらなきゃ解らないと、思う。
 さて、アリストテレス「形而上学」第5巻。第1章から第12章まで、今日は、読んだ。ギリシア哲学用語の解説集である。今まで読んで来た、カントやハイデッガーの、元ネタが、頻繁に出て来て、読んでいて、愉しい。やはり、近代以降の哲学も、ギリシア哲学の素養がないと、本当の意味での理解はできないな、と、思った。

アリストテレス 第5巻「形而上学」 第13章〜第30章

 同じく、ギリシア哲学の用語解説集である。アリストテレスの仕事は、形而上学という、ある種の建設作業で、揺るぎない、ギリシア哲学を構築しようと、していたように思える。私が、ST. ANDREW'S BOY'S HIGHSCHOOL の3年生の時、進路指導で、哲学科に、行きたい、と、言った時、神戸大学の哲学科で。武市健人氏から、直接教わった、Y教諭は、「俺は、形而上学を否定する。」と、冗談交じりで、言った。「先生がそんな事言ったらだめじゃないですか?」と、呆れたが、そのY教諭は、共産党員で、卒業生を集めた、サークルで、「空想から科学へ」の読書会を毎週していたが、私に「弓場、お前、寅さんの形而上学を考えろ!」と、言われた。その教諭は、もう亡くなられて、20年以上経つが、
私の、解答は、寅さんの形而上学とは、早稲田大学の中核派の愚民化政策だ、という、解答である。
 1980年代後半の、哲学徒の状況は悲惨だった。なんで、まだ、デカルトやカントを勉強している、初級哲学徒が、ドゥルーズガタリのようなものを、読まねばならないのか?ポスト構造主義とは、言っても、構造主義自体、教えてくれる、講師もいない。結局、私は、アルチュセールの「資本論を読む」を読んだ。資本論の誤読を提唱する、彼の、論述は、おもしろかった。バシュラールの影響から、「芸術労働は、1エレのリンネルとは、等価形態に入らない。」という、名言や、「土台が、必ずしも、上部構造を決定するとは、限らない、」という、多重層決定論。これで、マルクス主義の幅は大きく、広がったような気がする。
 その、アルチュセールまで、破壊しようとした、1968年の哲学化として、大ベストセラーになった「アンティオイディプス」とは、何だったのか?ただの、すねかじり経済学ではなかったのか?労働者の娘が、ヴィトンやグッチを手に取る、無茶苦茶な、消費社会を、煽っただけではないのか?マルクス主義が資本に絡めとられてしまった、だけではないのか?
 最近、ポスト構造主義とは、何だったのか、を、優しく解説してくれる、良書に出逢い、あの頃の、何が何だが、さっぱわからん、状態からは、脱しえた。しかし、もう、破壊は、たくさんだ、古典に戻り、もう一度、建築したい、と、思う。

アリストテレス「形而上学」第6巻

 アリストテレスの「形而上学」の目指しているものは、明らかに、神学である。

 さて、再び、構造主義と、ポスト構造主義に付いて、触れる。
相対的剰余価値が、生じたのは、一日12時間にも及ぶ、過酷な、労働時間による、絶対的労働時間、絶対的剰余価値を、減らす目的であった。生活必需品の価格が下がる事で、
相対的剰余価値が生まれ、労働時間は、短縮された。
 構造主義的経済学者、ボードリヤールらは、ブルジョアから、労働者階級にいたるまで、各家庭の、家具や、台所、生活必需品の、徹底比較を行い、膨大なページにおける、比較写真集を発行する。そして、ボードリヤールらは、このような、階層構造は、永遠に変えられない、という、非常に悲観的な、結論に、帰結した。
 しかし、その後に、起こった事は、労働者階級の子息が、ヴィトンやグッチを手に取る、という、転倒だった。相対的剰余価値の否定である。このような、消費行動を、ポスト構造主義者らは、「この消費行動こそ、革命だ。」と、煽動した。労働者のない脛をかじる、脛かじり経済学の誕生である。その結果、まだ、学生の身分でありながら、多重カードローンを、抱え、自己破産し、金融ブラックリストに載ってしまう者が、後を絶たなかった。日本のパルコ文化が、その象徴である。ポスト構造主義者らは、マルクシズムを、資本に、売却したのだ。

アリストテレス「形而上学」第7巻 第1章〜第4章

 アリストテレスによる、「実体」の概略。



 バブル経済とポスト構造主義

 日本のバブル経済は、1987年、世界恐慌が起こりかけた時、世界中の、コンピューターネットワークで、回避された時に、日本の、ブルジョアが、多くの不良債権を抱えた事から、
その、損失を埋めるために、地価や株価をつり上げる事に、より、始まった。この時の、イデオロギーが、ポスト構造主義の、消費文化の肯定であった。日本人は、それまで、貯蓄を美徳と、していたのに、この頃から、無理な、マイカーローン、マイホームローン。ヴィトンにグッチといった、異常な消費文化が生まれた。銀行は、「金を借りて下さい」と、各家庭を訪問し、融資希望額の倍以上の融資額を、融資していた。ソ連がなくなった事により、多くの、有能なマルクス主義哲学者が、自殺した。ポスト構造主義の消費肯定イデオロギーに、歯止めをかけるものは、いなかった。吉本隆明ですら、パルコ文化を肯定した。
 労働者階級は、その時、贅沢を憶えた。借りた金で、贅沢三昧していた。もはや、自分が、労働者階級だとは、思わなかった。月収の10分の1以上のローンを払わねばならないのに、マイホームを買った。バブル経済の弾けた時の、銀行の豹変ぶりも異常だった。今度は「金を返せ」である。当然の如く自己破産者が続出した。
 もはや、労働者階級に、労働者階級という、自覚はない。会社員は、会社の人であり、会社員である事だけで、エリート意識を持っている。会社の同僚も、皆ライヴァルである。自分が出世するか、相手が、リストラされるか。出世のためには、サーヴィス残業を進んで行う。労働時間は、マイカーローンや、マイホームローンを払って行く為に、増えるばかりだ。会社員自らが、率先して、サーヴィス残業をやり、労働時間を増やしている。これは、労働日の退行である。この様な状況下で、何らかの連帯など、作れるのであろうか?もはや、労働者階級という意識は、会社員は持っていないのに。私は、今日の状況で、労働者が連帯し、労働運動を繰り広げる事が出来るか否やについては。多分にニヒリスティックである。
アリストテレス「形而上学」第7巻 第4章〜第7章

 アリストテレスの準備しているものは、明らかに神学である。そして、この「形而上学」は、混乱した、ギリシア哲学の整理である。アリストテレスが最も、排除したいのは詭弁家たちである。
 しかし、パルメニデスやヘラクレイトスを、批判している、と言っても、アリストテレスと、ヘラクレイトスは、違うのだから、さほど、問題ではない。アリストテレスが、この「形而上学」で準備した中世神学では、弁証法は、はっきりと使われている。例えば、三位一体と、イエスキリストの復活や、聖書の言葉、「一粒の麦もし死なずば、一粒の麦にてあらん、死なば、大穂にてならん。」というのは、一粒の麦が、一粒の麦として、死んだら、(存在ー無化)大穂の麦に生成する(無化ー生成)という、立派な弁証法なのであり、
アリストテレスが、ヘラクレイトスを批判したと言っても、後年の中世神学は、ギリシア哲学のあらゆるものを取り入れているのだから。ただ、ギリシアの思想から、詭弁家を、取り除けば、それで、良かったのではないか?

アリストテレス「形而上学」第7巻 第8章〜第10章

 同じく、実体の概略。形相と質料の説明。


 トマスアクィナスやアンセルムス達の、中世神学では、例えば、三位一体を、父なる神ー聖霊ー子なる神の存在—無ー生成という、弁証法を使う。イエスキリストの復活によっても、人間としてのイエスキリストの死(存在ー無化)、神としての復活(無化ー生成)という、弁証法を使う。エルンストブロッホは、主体と客体が円環関係を成し、中心をSEINとすろ、形而上学を、初期マルクスの哲学草稿から、提唱した、西田幾多郎は、主体と客体が、円環的関係を結び、中心は、「無」であると、いう、形而上学を、シェリング、フィフテの研究から、仏教的な見知から、提唱した。
 イスラム神秘思想では、全ての偶像が否定される。中心に行けば行く程、何の存在もない。神の本当の名すら無い。中心は「空」である。(放送大学「イスラム神秘思想」講義より)これは、或る意味、西田哲学の「無」の概念に通ずるものではないか?
 西洋哲学では、デカルトでさえ、神の存在証明を行っている、それゆえ、神の存在故、人間の、認識には、明証性、があり、それ故の、「コギト エルゴ スム」なのである。ぶっちゃけて言えば、イエスキリストの存在がなければ、「1+1=2」すら、成り立たない、というのが、デカルトの近代哲学なのである。

アリストテレス「形而上学」第7巻 第11章〜第13章

 同じく、実体の概略。形相と質料の説明。分割法、基体と本質


 マルクスの「DAS KAPITAL」では、剰余価値論において、三位一体論の論理学が使われている。
Geld-Ware-Geld シュトリッヒの運動において、ΔGが、聖霊として、父なる神(Geld)ー聖霊(ΔG)ー子なる神(Gシュトリッヒ)

このように、マルクスのDAS KAPITALは、様々な論理学を駆使した、哲学書でもあるのです。

アリストテレス「形而上学」第7巻 第14章〜第17章

 
 第7巻は、実体の概略である。あらゆる、問題点を考察し、イデア、形相、質料について、語り、形而上学を、建築していく。その過程で、一切の詭弁を排除して行く。


 マルクスの商品論における、「物象化論」では、1エレのリンネルと、等価形態になる、諸商品から、金が排除され、貨幣が物神化される、有様を描いてある。ドフトエフスキーの、「大審問官」では、イエスキリストが、本当に顕われ、異端審問にかけられる。カミュのシーシュポスの神話では、冥界から、一時的に、地上に帰るのを許された、シーシュポスが、期限を過ぎても、帰らなかった、罰として、山上に、大きな石を運び、運び終わると、また、石は落ち、再び、山上まで、石を運ぶ、永遠運動の刑に処せられる。しかし、カミュは、その不条理こそ、希望だ、と、説く。この、三つの話しには、或る、共通項がある。神はもはや、貨幣であり、よって、イエスキリストが本当に顕われても、異端審問にかけられるしか、ないのである。カミュが反抗し、シーシュポスの永遠運動に、希望を観るのも、その、神は、本当の神ではないからである。神はどっかにいってしまっているのである。マルクスも、ドフトエフスキーも、カミュも、本当に求めているのは、転倒していない、神であり、そこにこそ、シーシュポスの希望があるのだ。

アリストテレス「形而上学」第8巻 第1章〜第3章

 アリストテレスによる、「実体」の説明。



 エルンストブロッホ「希望の原理」第2巻によれば、空想的社会主義者、サンシモンやプルードンは、キリスト教的社会主義を、構想し、実践に、移そうとした、と、述べられている。それは、従来のキリスト教会が、堕落し、金持ちしか、相手しないようになったからだ、と、説かれている。このように、ヨーロッパのコミュニズムは、キリスト教の延長線上に顕われたのであり、キリスト教の信仰の根付いていない、日本で、「神はいない」と、まるで、鬼の首でも取ったかのように、言っている、人々は、ただ、仏教や、新興宗教諸宗派と、同じことを、言っているに、すぎないのである。

アリストテレス「形而上学」第8巻第4章〜第6章

「各々の事物をその可能態から現実態へと動かす者がある。」


 さて、アリストテレスの「形而上学」第1巻から、第8巻までの、上巻を読んで来たわけである。アリストテレスの「形而上学」のキーワードは、「実体」であるのは。解った。しかし、その全貌は、まだ、あきらかにされていない。上巻では、ギリシア哲学用語の説明に、終始している。これは、アリストテレスが、ギリシア思想から、詭弁家を徹底的に、完全に、排除したかったからだと、思う。詭弁家を排除しなくては、アリストテレスの形而上学の、建設は、不可能だったのである。詭弁家は、現代社会でも、多い。世の中、詭弁家だらけだ。しかし、ギリシャ時代に、既に、あらゆる、詭弁を排除し、真理に迫ろうとする、哲学者がいたのだ。それが、アリストテレスである。

アリストテレス「形而上学」第9巻 第1章〜第10章

 「可能態と現実態」


 さて、上巻において、言葉の説明に終始した、アリストテレスは、「形而上学」下巻。第9巻から、本格的に、彼の、形而上学を、展開していく。
可能態と、現実態においての、説明が、9巻のあらましである。もちろん、「実体」との関係においてである。
 エルンストブロッホは、この「可能態と現実態」のテーマを非常に、重要視していた。彼は、ソ連が、まだ、大きな権力を持っていた時代に、「本当の社会主義は、未だ、存在していない。Noch-Nicht-Sein」と、説き、亡命を繰り返した、最期の、本当の哲学者である。
 それでは、旧ソ連や、東欧旧社会主義圏、今の、北朝鮮らが、何故、本当の社会主義ではなかったのか?マルクスの「資本論」によれば、資本主義が爛熟すればするほど、利潤率は傾向低下し、自動的に、社会主義にシフトする、と、いうものであった。爛熟した、資本主義経済の、後に、顕われるのが。本来の、社会主義なのである。


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