Aska Temple

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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part17

ヘーゲル「精神の現象学」B 自己意識 IV 自分自身だという確信の真理 Die Wahrheit der Gewissheit seiner selbst  
B 自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸な意識  Freiheit des Selbstbewusstseins;Stoizismus,Skeptizismus und das ungluckliche Bewusstsein


(一)ストア主義

  「自立的な自己意識(主)にとっては、一方では、ただ、自我、という、純粋抽象だけが、自分の実在であるが」

  「これに対して、己れのうちに、押しもどされた、意識(奴)のほうは、形成するに当たって、形成せられた、諸物の形相として、自分が対象となることを、認めているし、」
  「また、これと、同時に、主において、この意識は、対自存在が意識であることを、(客観的に)直感している。」

  「自由な自己意識である。」

  「いったい、『表象』の場合には、『これこれが、自分の表象である』ことを、意識が、取り立てて、予め、ことわっておく必要があるのに」
  「概念は、私にとって、直ちに私の、概念である。」
  「思惟において、自我は自由にある。」

  「この形態の対象が、即自存在と対自存在との統一ではあっても」
  「この統一が、直接的な統一だといえるということである。」

  「自己意識のかかる自由は、自覚的な現象として、精神史において、登場したときには、周知のごとく、ストア主義とよばれてきたものであるが」
  「この主義の原理は、意識が、思惟するものであること」
  「また、或るものが、意識に対して、実在性を、もつのは」
  「意識に対して、真ないし、善であるのは、意識が、思惟するものとしての態度をとって、それに、関係する場合だけだ、ということである。」

  「『自由』と、言っても、ただ、自由の概念であるに、すぎないのであって、活き活きとした、自由自身ではない。」
  「まことに、この自由にとっては、まだやっと、思惟一般が、即ち、諸物の自立性から、離れて、己れのうちに、退いた、形式のものが、実在であるにすぎないのである。」

  「だから、ストア主義は、当時よく用いられた、言葉で言えば、およそ、真理一般の標準とは、なんであるかと」
  「即ち、いったいぜんたい、思想そのものの内容とはなんであるか、と、問われた、ときには、当惑におちいったのである。」
  「ストア主義に向かって、なにが善であり、また、真であるかと、問うと、この主義は『真なるもの及び、善なるものは、合理性のうちに存するはずである』という。」
  「またもや、無内容な思想そのものを、もって、解答として与えたが」

  「かくして、この、思惟する意識は、自分で自分を、抽象的な自由であると、規定したが」
 
  「この意識は、対他存在の不完全な否定であるにすぎない。」


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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part16

ヘーゲル「精神の現象学」B 自己意識 IV 自分自身だという確信の真理 Die Wahrheit der Gewissheit seiner selbst  
A 自己意識の自立性と非自立性、主であることと奴であること Selbstandigkeit und Unselbsrandigkeit des Selbstbewusstseins, Herrsshaft und Knechtschaft.


(三)主と奴

α 主であること


  「主は、自分だけで存在する、意識ではあるけれども」

  「このさい主は」
  「(a)自己意識の『概念』としては、自分だけで、の存在の無媒介的関係であると」
  「(b)同時に、しかし、今や、媒介態として、言いかえると、ただ、他者を介してのみ、自分だけで存在するところの、自分だけの存在としてもあるのだから」
  「主は(a)無媒介に両者に関係すると共に」
  「(b)両者の一方を介して、他方に媒介的にも関係することになる。」
  「(この媒介関係に二つある)
  「(一)主は、自立的な存在を介して、奴に媒介的に関係する。」
  「(二)これと全く同様に、主は、奴を介して、物に媒介的に関係する。」

  「主は、享受することを、うるのである。」

  「主にとっては、自分が他方の意識によって、承認せられているということが、生じている」

  「主は、自分だけでの存在が、(自分の)真理であることを確信しているのではなく」
  「主にとって自分の真理であるものは、むしろ、非本質的な意識であり、また、この非本質的意識の非本質的な行為である。」

  「したがって、自立的意識の真理であるのは、奴としての意識である。」

  「奴であることも、そとから己れのうちに、押しもどされた意識として、己れに至り、かくして、顛倒して、真の自立性となるであろう。」


β 奴の畏怖と奉仕


  「しかし、奴であることも、自己意識であるので」

  「奴であることに対しては、主が、本質であるから、自立的な自分だけで、存在する意識(主)が奴であることにとって、真理であるけれども」
  「まだ、奴であることに、即してある(具わる)ものではない。」
  「しかしながら、奴であることも、純粋の否定性と、自分だけでの存在、という真理を、じっさいには、自分自身に即して、具えている。」

γ 奴の形成の労働

 
 「労働を媒介とすることによって、意識は、己れ自身に、至るのである。」

 「労働は、形成するのであり」

 「労働するものに対して、こそ、対象は、自立性をもつからである。」
 「労働することというこの、否定的な媒語または、形成する行為も、同時に個別態であり」
 「言いかえると、意識の純粋な、自分だけでの存在ではあるが」

 「だから、労働する意識は、こうして、自立的な存在を、自分自身だとして、直感するに至るのである。」

 「自分の純粋な、自分だけでの存在が、存在するものになることを、認めるようになるのであるが」

 「造形においては、自分だけでの存在は、自分自身のものとして、自分に対して、あるようになり」
 「かくして、この奉仕する、意識自身が、即自且つ対自的にあることを、自覚するに至るのである。」

 


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ヘーゲル『精神現象学」を読む Part15

ヘーゲル「精神の現象学」B 自己意識 IV 自分自身だという確信の真理 Die Wahrheit der Gewissheit seiner selbst  
A 自己意識の自立性と非自立性、主であることと奴であること Selbstandigkeit und Unselbsrandigkeit des Selbstbewusstseins, Herrsshaft und Knechtschaft.


  「自己意識は、即自且つ対自的に存在するが」

  「自己意識は、ただ、承認せられたものとして、のみ、存在するのである。」

  「『我々』には、承認の運動が現れてくる。」

(一)承認の概念

  「自己意識に対して、ひとつの他の、自己意識があり、自己意識は、自分のそとに出ているが、このことは、二重の意味をもっている。」
  「第一には、自己意識は、自分自身を喪失している。」
  「なぜなら、自己意識は、他を実在として、見出すからである。」
  「第二には、自己意識は、そうすることによって、『他者』を撤廃している。」
  「なぜなら、自己意識は、また、他者を、実在とは見ずに、他者のうちに、自分自身を見もするからである。」

  「第一には、自己意識は、この撤廃によって、自分自身を再び、取り戻す」
  「なぜなら、自分の他的存在を、撤廃することによって、自己意識は、再び、自分と、同一となるからである。
  「しかしながら、第二には、自己意識は、自分に、再び、他の自己意識を、与え戻す(他の自己意識を再興する)」
  「なぜなら、自己意識は、自分が、他者のうちにあることを。認めていたのであるが」
  「かく他者のうちにある、自分の存在を撤廃することによって、他者を再び放免し、自由にすることになるからである。」

  「こうして、『自分のそと』というものを、対自的に認めている。」

  「両極は互いに承認しあっているものであることを、互いに、承認しあっている。」

  「一方は、ただ承認せられたものであるにすぎず、他方は、ただ、承認するものであるにすぎぬ、という側面を示すであろう。」


(二)承認のための生死を賭する戦い

  「自己意識にとって、その本質であり、絶対的な対象あるものは、自我であり」

  「それでは、自己意識によって、他者が、なんであるか、と言うと『否定的なもの』という刻印をおされた、非本質的対象として、あるものである。」

  「対象(相手)(の存在)が、自分自身についての、かかる純粋な、確信であるのを、呈示してくれるより、以外のことではなかろうからである。」

  「そこで、両方の自己意識の関係は、両者が、生死を賭する戦いによって、自分自身の、またお互の、証しを立てることである、と、規定せられるわけである。」
  「両者は、この戦いに入らざるをえない。」
  「なぜなら、両者は、自分だけで、存在するという自己確信を、(客観的)真理まで高めざるをえず」
  「しかも、他者についても、自分自身について、そうせざるをえぬからである。」
  「自由の証しの立てられるのは、ただ、(己れの)生命を賭することにのみよっており」

  「かえって、自己意識においては、自分にとって、消失する、契機でないようなものは、何ひとつもないことの」
  「自己意識が、ただ、純粋な自分だけでの存在しかないことの、証しの立てられるのも」
  「ただ、生命を、賭するのを介してのことである。」
  「生命を、賭さなかった個人も、たしかに、人格として、承認せられることは、できるけれども」
  「しかし、自立的な自己意識として、承認させられているという真理を、達成はしなかったのである。」

  「両者は、意識の二つの相対立せる形態として、あることになる。」
  「一方の形態は、自立的意識であって、自分だけでの存在をもって」
  「他方の形態は、非自立的意識であって、生命ないし、他者に対する、存在をもって」
  「それぞれ、本質としている。」
  「前者は、主」
  「後者は、奴である。」

  



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ヘーゲル『精神現象学」を読む Part14

ヘーゲル「精神の現象学」B 自己意識 IV 自分自身だという確信の真理 Die Wahrheit der Gewissheit seiner selbst  (三)

B 自己意識
IV 自分自身だという確信の真理

(三) 自我と欲望


   「最初の、無媒介の統一から出発して、形態化と(生命の)過程という(両)契機を通じて、これら両契機の統一へと、還帰し、」
   「したがって、再び、最初の単純な実体へと、還帰したのであるから」
   「この還帰した統一は、最初の統一とはちがった別の統一である。」

   「この第二の統一は、これら、すべての契機を止揚せられたものとして、内含している、普遍的な統一である。」
   「この普遍的な統一が、単純な類であるが」

   「この意識は類であることを、自覚している。」

   「しかし、かかる生命は、自己意識である。」

   「自己意識は欲望なのである。」

   「しかし、これと同時に、自己意識は、また絶対に、自分だけで、存在するものであり」
   「そうして、自己意識が、かく自分だけで、存在するのは、ただ、他者を撤廃することにのみ、よっているのであるが」
   「さりとて、自己意識が、(絶対に自分だけで、存在することの)真理である以上」
   「自己意識には、その満足が生ぜざるをえない」

   「(a)自己意識にとって、最初の無媒介な、対象は、純粋な、区別のない、自我である。
   「(b)しかし、この無媒介は、それ自身絶対の無媒介であり、ただ、自立的な対象の撤廃として、のみ、あるものである、言いかえると、この無媒介は欲望である。」
   「欲望の満足は、もちろん、自己意識の己れ自身のうちへの還帰であり」
   「言いかえると、(客観的)真理となった、確信ではあるが」」
   「(c)しかし、この確信の真理は、むしろ、二重の還帰であり、自己意識の二重化である。」
   「ここで、真理に対して、対象であるところのものは、自分自身において、自分が、他的存在であること」
   「ないし、区別であることを、なきものとして、定立し、」
   「しかも、そうすることにおいて、却って、自立的である、対象である。」
   「ただ、生命をもつにすぎない、区別された形態も」
   「もちろん、生命そのものの過程のうちにおいては、自分の自立性を、撤廃しはするが」  
   「しかし、この形態は、区別である(限界)まで行くと、もう自分が、そうであろう、形態をやめるのであるが」
   「これに対して、自己意識としての、対象は、己れ自身を否定しながら、全く同様に、自立的でもあり」
   「そうであることによって、自ら、自覚的に類であり」
   「分離して、特異のものである、さなかにおいて、普遍的流動でもある。」
   「すなわち、この対象は、生ける自己意識なのである。」

   「ここに初めて、自己意識に対して、己れの他的存在における、自己自身との、統一が、自己意識に対して、生ずるからである。」

   「欲望の対象は、ただ自立的であるにすぎない」

   「この対象は、普遍的な、絶滅すべからざる、実体であり」
   「流動的な自同的な実在だからである。」
   「しかるに、自己意識が対象であるときには、この対象は、対象であると、全く同様に、自我でもある。」

   「今後に、意識に対して、生ずるものとは、いったい、精神とは、なんであるかという、経験である。」
   「精神という、この絶対的な実体が、もっている、対立、即ち、相異なり、各自別々に、存在する、両方の、自己意識が、各自に、全く、自由であり、自立的であるのに
    両者の統一」
   「即ち、我々である、我と我である、我々とを、形づくる、さいの、絶対的実体である、精神が、なんであるか、についての経験が」
   「今後に意識に対して、生ずるものなのである。」
   「意識は、精神の『概念』としての、自己意識において、初めて、転換点に立ち」
   「ここで感覚的此岸のいろとりどりの仮象から、また、超感覚的彼岸の空虚な夜から、現在という、精神の昼のうちに、歩み入るのである。」

  


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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part13

ヘーゲル「精神の現象学」B 自己意識 IV 自分自身だという確信の真理 Die Wahrheit der Gewissheit seiner selbst  (一)(二)


「対象についての、最初の直接的な『表象』は経験のすすむにつれて己れを止揚するのであり」
   「かくて、確信は、真理のうちに、消え失せたのである。」
「自我は、他者に対立して、自分自身であると同時に」
   「この他者を越えて、包みもしており」
   「したがって、他者は、自我にとっても、また、まさに、自分自身であるにすぎぬのである。」

(一)先行形態と自己意識

  「かくして、『我々』は、自己意識(の段階)にたどりつくと共に、真理の郷土的な国に歩み行ったのである。」

  「私念の存在、知覚の個別態と、これに、対立する普遍態」
  「それから、また、悟性の空虚な、内なるものは、もはや、実在としてではなく」
  「自己意識の諸契機として、あるのであるが」

  「しかし、自己意識とは、じっさいにおいては、感覚的な、知覚的な世界の、存在から反省することであり」
  「本質的に、対他存在から還帰することであるから」
  「自己意識が、自己意識であるのは、運動としてのことである。」

  「だから、自己意識に対しては、ひとつの存在としての、対他存在があることになり」
  「その認むるところとなるが」
  「これが即ち、区別された契機(の第一)である」
  「自己意識に対しては、この、区別されたものと、自己自身との、統一もまたあるが」
  「これが、第二の、区別せられた契機である。」

  「そこで、自己意識の現象と、真実態との、対立が、生じてくるが、この対立は、ただ、真実態のみを、即ち、自己意識の、己れ自身との、統一のみを、本質として、もって
   いる。」
  「そこでこの統一が、自己意識にとって、本質的とならさざるをえないが」 
  「このことは、自己意識が欲望一般であることを、意味している」
  「だから、自己意識としては、意識は、今や、二重の対象をもつことになる。」
  「一方の対象は、直接的な対象であり」
  「感覚的確信と知覚の対象であるが」
  「これは、自己意識にとっては、否定的なものの性格を刻印せられている。」
  「自己意識がもつ、第二の対象と、言うのは、即ち、自己自身のことであり」
  「これが、真実の本質であるけれども」
  「この第二の対象も、さしあたっては、第一の対象との対立においてあるにすぎない」
  「この対立において、自己意識は、運動として、現れてくるが」
  「この運動において、対立が、止揚せられて、自己意識には、己れ自身との統一が、生成してくるのである。」


(二) 生命

  「自体的には、対象も、自分のほうでは、やはり、自分のうちへ還帰している。」
  「かく、自分のうちへ、還帰していることによって」
  「対象は、生命となっている。」
  
  「そこで、直接的な、欲望の対象は、生命あるものであるが」
  「即ち、悟性が、諸物の、内なるものへ、関係することによって、えられた、自体、ないし、普遍的な結果というのは」
  「区別せられえぬものを、区別することであり」
  「区別のあるものを、統一することであるが」
  「この統一もやはり、己れから拒斥するので」
  「統一というこの概念は、二つに分かれて、自己意識と生命との対立となるのであるが」
  「前者は、区別の『無限』な統一であることを、自覚している統一であり」
  「これに対して、後者は、ただ、この統一自身であるにとどまって、同時に、この統一たることを、自分では、自覚していない統一である。」

  「さしあたって、欲望であるところの、自己意識は、むしろ、対象の自立性を、経験することに、なるであろう。」

  「(第一に)本質であるものは、あらゆる区別項が止揚されてあることとしての、無限性であり」
  「運動ではあっても、純粋な軸回転運動であり」
  「絶対に、不安定な無限性でありながら、自分自身安らいであり」
  「運動にさいして、の区別項を、解消させているところの自立性自身であり、空間としてのしっかりとした形態をも具えていながら、時間の単純な本質として、自同的であるも 
   のである。」
  
  「(第二には)区別項は、この、単純で、普遍的な、媒体において、あるにしても、やはり、区別項として、存在する。」
  「なぜなら、この普遍的な流動性が、その否定的な本性を持っているのは」
  「ただ、それが、区別項の止揚であることにのみよっているが」
  「もし、区別項が存立をもっていないとすると」
  「この流動性とても、区別項を、止揚することはできないからである。」
  「だが、まさに、この流動的こそ、自同的な自立性として、それ自身」
  「区別項をして、存立させるものであり、言いかえると、区別項の基礎に立つ実体であり」
  「したがって、この実体においては、区別項は、区別せられた、分肢として、また、各自自分だけである部分として、存在する。」


  「だから(第三には)(分肢の)存在と言っても、もはや、存在だけを、抽象したものを、意味するのではないし」
  「また分肢に純粋本質態と言っても、普遍性だけを、抽象したものを、意味するのでもなく」
  「分肢の存在が、そのまま、純粋な、自己内運動のかの単純で、流動的な実体なのである。」

  「無限性ないし、純粋運動の、諸契機がもつ、限定においてのことであて」
  「これ以外の、いかなる限定においてのことでもない。」

  「自分の自分だけでの、存在の止揚だからである。」

  「しかも、よってもって、自分が、自分だけで、存在するこの対立を止揚する、ゆえんである。」

  「自分だけで、存在するものも、自体的には、単純な実体であるから」
  「この自分だけで、存在するものが(自分を、止揚するための単純なものとしての)自分のうちに(実体を)他者として、定立するときには、自分の(本質としての)かかる
   単純態を、言いかえると、自分の本質を止揚することになるのであるが」
  「これは、自分だけで、存在するものが、自分の単純態を、分裂させることを、意味しており」
  「そうして、かく区別のない、流動性を、分裂させるものであると、同時に、こうして、存立するようになっている、区別項を解消するものでもあるが」
  「しかし、分裂を解消することもまた全く同様に、分裂することであり」
  「分肢することである。」

  「生命をなしているのは、己れを展開し、この展開を解消するという、運動のさなかにおいて、己れの単純態を維持しているところの全体なのである。」






  


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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part12

ヘーゲル「精神の現象学」 A 意識  III 力と悟性、現象と超感覚的世界 Kraft und Verstand, Erscheinung und ubersinnliche Welt.(三) (四)

III 力と悟性、現象と超感覚的世界


(三) 無限性

   「超感覚的世界の一方の側面の本質をなしているものは、顛倒であるが」
  
   「思惟せられる、必要のあるのは、純粋な、交替、或は、己れ自身における対立であり、矛盾なのである」

   「顛倒せられた世界であるところの、超感覚的世界の場合も同様であって」
   「この超感覚的世界は、同時に、他の世界を越えて、包み」
   「それ自身において、この他の世界でもある。」
   「この超感覚的世界が、それ自身、顛倒せられた世界であり」
   「即ち、己れ自身の顛倒である。」
   「超感覚的世界が、自分自身であるのと、反対の世界でもあるのとは、ただ一つの統一におけることである。」
   「ただ、かくしてのみ、超感覚的世界は、内的な区別としての、或は、自ら自体的な区別としての、区別であり、言いかえると、この世界は、無限性として、あるのであ
    る。」

   「かくて。これらの部分は、肯定的なものと、否定的なものとして、相互に、活をいれられ(精神化せられ)ることになり」
   「それらの、『存在』とは、むしろ、各自が己れを非存在として、定立し、統一のうちに、己れを止揚することである。」
   「区別された両者は、共に、存立し、それぞれ自己によって、存在し」
   「しかも、自己によって、互いに、対立したものとして、存在するが、このことは、両者が各自に、自分自身の正反対であることを」
   「両者が、各自に他者を自分で具え、そうして、ただ一つの、統一をなすにすぎぬことを意味しているのである。」

   「この単純な無限性、言いかえると、絶対的概念は、生命の単純な本質、世界の霊魂、普遍的な血と呼ばるべきものであるが」

   「即ち『どのようにして、この純粋な実在から区別ないし、他的存在がきたるのか、この実在から、そのそとに出てくるのか』と、我々が、問う必要はないのである。」


   「したがって、己れ自身と、同じであるものが、二つに分かれるというのは」
   「それが、まさに、すでに、二つに分かれることによって、生じたものとしての、己れを」
   「己れが他的存在であるのを、止揚することをも、意味するのである。」

   「だから、二つに分かれることと、己れ自身と、同じになることとの、区別もまた、このような自己止揚の運動にほかならないのである。」

   「したがって、自分の二つに分かれたものであることの、止揚だからである。」                   


   「言いかえると、むしろ、二つに分かれたものと成るのである。」


(四) 総括

   「無限性、言いかえると、例えば、『存在』としてというような、何か、或る仕かたで限定せられているものが、むしろ、限定の正反対である、という、純粋な自己運動の
    絶対的動揺は」
   「もちろん、これまで、述べたことすべてのすでに、魂ではあったが」
   「しかし、この無限性自身が、自由に顕現したのは、内なるものに至って、初めてのことである。」
   「現象、言いかえると、両力の遊戯もすでに、この無限性自身を表現してはいるが、しかし、説明の段階に至って、初めて、無限性は、自由に顕現し」
   「そうして、最後に、無限性が意識に対して、それがまさに、そうであるものとして、対象であるときには」
   「意識は、自己意識である。」
   「悟性の説明は、さしあたっては、ただ、自己意識の何であるかの記述をなすにとどまっている。」

   「悟性は、これらの区別項を止揚して、力という、ただひとつの統一のうちに定立する。」

   「かかる運動、或は、必然性は、また、悟性の必然性であり、悟性の運動であり」

   「じっさいには、悟性は、ただ、自分自身にだけ、関わっているのである。」

   「第一の法則の顛倒としての、反対の法則においては、なるほど、無限性自身が、悟性の対象となりはするけれども」
   「しかし、同名のものが、己れ自身を、拒斥すること、及び、不同のものが、相引くことである、自体的区別を、悟性は、再び、二つの世界、或は、二つの、実体的境地に、
    割り当てるから」
   「悟性は、無限性を、無限性そのものとして、とらえることには、再び失敗する。」
   「無限性という運動は、悟性の経験のうちには、ありはするけれども」
   「この経験のうちにあるかぎりの、運動は、悟性にとっては、此処では、ひとつの『出来事』であり」
   「『同名のもの』とか『不同のもの』とか、言っても、それぞれ、述語(附加語)であって」
   「これの本質は、存在している、基体なのである。」
   「かく、悟性にとっても無限性は、対象ではあっても」
   「この、同じ、無限性が『我々』にとっては、純粋概念として、その本質的な形態においてある。」

   「意識は自己意識なのである」
   「私(自我)が私を、私自身から区別するが」
   「区別しながら、この区別されたものが、区別せられていないことが、無媒介に私に対してあり」
   「私の認めるところである。」
   「私という、同名のものが、私を、私自身から、拒斥するが」
   「私にとって無媒介に、なんら区別ではないのである。」
   「いったい他者ないし対象一般の意識というものは、もちろん、それ自身、必然的に、自己意識であり、己れのうちに還帰してあるものであり」
   「他的存在のうちに、自己自身を意識するものである」

   「自己意識は、やっと、自分だけで、生成しているのであって」  
   「まだ、意識一般との統一としては、生成してはいないのである。」

   「悟性が、現象の内なるものにおいて、経験しているものは、ほんとうは、現象自身以外のものではないが」
   「しかし、『現象』と言っても、これは、両力の遊戯として、あるようなものではなく」
   「絶対に、普遍的な、諸契機とその運動とにおける、この遊戯のことであり」
   「したがって、悟性は、現象の内なるものにおいて、ただ自分自身だけを、経験しているのである。」

   「この運動を通じて、私念と知覚と悟性という意識の諸形態は、消えうせたのだからである。」

   「意識が己れ自身を知っているときに、何を、意識が知っているかについて、認識するには、さらに、一層の委曲をつくす、必要があるということであるが」
   「この点を詳しく解明するのは、今後のことである。」
  


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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part11

ヘーゲル「精神の現象学」 A 意識  III 力と悟性、現象と超感覚的世界 Kraft und Verstand, Erscheinung und ubersinnliche Welt.(二)

III 力と悟性、現象と超感覚的世界

(二) 内なるもの

<二>区別と同一としての法則

α 限定的諸法則と普遍的法則

  「諸法則の国は、たしかに悟性の真理であり」
  「しかし、同時に、この国は、悟性の最初の真理であって」
  「現象の全面を、みたし切ってはいない。」

  「いったい悟性は、単純な、内なるものの意識として、自体的に、普遍的な統一をもって、真なるものとするものであるが」

  「このさい、悟性は、普遍的な現実そのものを、表現する、普遍的法則を、見出したつもりでいるけれども」  
  「しかし、じっさいには、悟性の見出したものは、ただ、法則そのものの概念であるにすぎない。」
  「この概念を見出すのと同時に、悟性は、『一切の現実は、それ自身において合法則的である』ことを、言明しているのであるから」

  「法則そのものにおいて、現存している、区別項でさえも、再び、単純な統一としての、内なるもののうちへ、還帰するというように、把握せられるべきである。」
  「そうして、この統一が法則なるものの内的必然性なのである。」

β 法則と力

  「かくて、法則は、現に、二重の仕方においてあることになり」
  「一方では、孤立的な、諸契機としての、区別項の表示せられている法則であり」
  「他方では、単純に、己れのうちに還帰してあるという形式においてである」
  「後者は、再び、力と呼ばれうるが」
  「しかし『力』は(己れのうちに)押しもどされた力ではなくして、力一般であり、言いかえると」
  「力の概念としての力であり」

  「時間と空間とは、運動の自立的な部分或は、各自それ自身においてある、実在である」

γ 説明

  「だから、区別は、以上いずれの場合においても、自体的区別でない」
  「即ち、力である、普遍者が、法則のうちにある、部分化に対して、没交渉であるか」
  「それとも、法則の部分である、区別項が、相互に、没交渉であるかのいずれかなのである。」

  「力がまさに、法則と全く同一性質のものであることを、意味する」
  
  「悟性は、いぜんとして、対象の静止的統一に、執着しており」


  「この悟性のうちに交替をもっているのである。」

<三>内的区別の法則(第二次の法則)と顛倒された世界


  「概念は、悟性の概念としては、諸物の内なるものと同一であるから」
  「この交替は、内なるものの法則として、悟性に対して、(その対象として)生じてくる」
  「そこで、悟性は、経験するのであるが」
  「経験するのは、次のようなことが、現象自身の法則であるということである。」
  「即ち、区別は、生じてきはしても、これが、なんら、区別でないこと」

  「この原理によって、最初の超感覚的なるもの」
  「即ち、諸法則の静かな国」
  「知覚される、世界の直接的な模像は顛倒して、正反対のものに、転換している。」

  「この第二次の超感覚的世界は、顛倒された世界であり」
  「しかも、一方の側面は、すでに、最初の超感覚的世界においてできているから」
  「この第二次の超感覚的世界は、この最初の、超感覚的世界の、顛倒された世界である。」
  「こうして、内なるものが、現象であることが、完成せられたのである。」
  「なぜなら、最初の超感覚的世界は、知覚される、世界を、普遍的な境地にまで、直接的に高めたものであるのすぎぬので」
  「必然的に、知覚される世界において、自分に対立する、像をもち」
  「そうして、この知覚される世界は、かの世界に対して、まだ、自分だけで、交替と変転との原理を、留保していたからである。」
  「諸法則の最初の国が、この交替と変転との原理を、欠いていたが、しかし、この国も、顛倒された世界となると、この原理を獲得している。」

  「即ち、顛倒せられた世界が、最初の世界を己れのそとにもち」
  「これを、ひとつの顛倒した反対の現実として、己れから、拒斥し、」
  「そこで、一方の世界は、厳守であるが」
  「これに対して、他方の世界は、自体であり」
  「一方は、他者に対して、あるような世界であるが」
  「これに対して、他方は自分だけで(絶対的に)あるような世界である、という意味においてである。」


  
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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part10

ヘーゲル「精神の現象学」 A 意識  III 力と悟性、現象と超感覚的世界 Kraft und Verstand, Erscheinung und ubersinnliche Welt.(一)(二)


III 力と悟性、現象と超感覚的世界


   「悟性に生成したものが、真なるものの、概念ではあるけれども」
   「しかし、この真なるものは、即自的に存在する真なるものであって」
   「まだ『概念』でもなく』
   「言いかえると、意識の対自存在(自覚存在)を欠いており」
   「そこで、悟性は、この真なるもののうちに、己れを認めることなく」

   「即ち、知覚において、真とされた内容は、じつはただ、形式のみに属し」
   「形式のうえでの、統一のうちに、解消するより、ほかの、本性をもっていないからである。」
   「知覚のこの内容は、同時に、(無制約的に)普遍的なのであって」
   「自分の特殊の性質によって」
   「この無制約的普遍性のうちに、還帰することを、逃れるような、其の他の、いかなる内容とて、ありえないのである。」

   「この本性の真実態とは、無制約的普遍者である、ということである」
   「そこで結果は、端的に、普遍的であるということになる。」

   「諸契機は、ただ、この普遍態のうちにのみあるから」
   「もはや、凡そ、離れ離れにあるのではなく」
   「側面を形づくりはしても」
   「本質的に、自分自身で、自分を止揚するのであり」
   「定立せられているのは、これらの側面が、相互に移行する、ということだけである。」


(一) 力と発現、誘発するものと誘発されるもの、両力の遊戯

   「これら、物質の自立性とは、この媒体以外のものではない。」
   「この媒体という、普遍的なものとは、どこまでも、かく互いに、相違し、それぞれ普遍的であるものの、数多性のことである。」

   「即ち、その一方の契機であるところの、各自の存在を、えている、諸自立的物質への展開としての、力は、力の発現であり」
   「これに対して、諸物質が、消失していることとしての、力は、己れのうちに押しもどされた、力であり、言いかえると、本来の力である。」

   「『我々』が、両契機を、それら直接態な統一のうちに、維持するときには、力の概念」
   「即ち、区別された契機を、区別されたものとして、担っている、ところの、概念が、本来的帰属しているのは、悟性である」

   「第一には、力が本質的に、即時且つ対自的であるにとどまる、全体的な、力として、定立せられざるをえないこと」
   「次には、力の区別項が、実体的なものとして、言いかえると、各自、自分だけで、存立せる、契機として、定立せられざるをえないことである。」

   「今や、力が、現に、存在するのは、展開された、諸物質の媒体としてである、ということになる」

   「この力のほうが、誘発するものを、普遍的媒体として、定立するのであり」
   「いなむしろ、それ自身、本質的に、普遍的媒体であることを、意味している。」

   「両力への二重化によって、力の概念が、現実的となること」 
   「また、この概念が、どのように、現実的になるか、ということである。」

   「力の概念が、その現実態のさなかにおいても、本質(実在)であるのを、保つことにある。」
   「現実的なものとしての、力と言えば、簡単に、ただ、発現においてのみ、あるもののことである」

   「悟性が、最初に、或は、無媒介に、力の本質である、と、認めたところの、普遍態と、なっており」
   「そうして、この、普遍態は、力の所謂実在性においても、やはり、力の本質であることを、証すのである。」


(二) 内なるもの


   「もし『我々』が最初の、普遍的なものをもって、悟性の概念と見なすならば」
   「この概念においては、力は、まだ、(即自的であって)対自的ではないが」
  
   「今や、第二の普遍的なものは、即時且つ対自的に、現れてきているような、力の本質である。」

<一> 超感覚的世界
α  内なるものと現象と悟性

  「意識は、内なるものに対して、媒介による、関係にたつのであり」
  「意識は、悟性としての、両力の遊戯という、この媒語を介して、諸物の真実な、後ろの、根拠を、見るのであるというように」
  「この本質は、規定せられている。」

  「この対象が、意識に対して、存在するのは、現象の運動によって、媒介せられてのことであるが」

  「内なる、真なるものは、絶対的な普遍者であって」
  「普遍者と個別者との対立から、純化せられて」
  「悟性に対して生成したものであるが」
  「この内なるものにおいて、現象する、世界としての、感覚的世界を、越えて、今や、初めて、真なる世界として、超感覚的な世界が、開けてくる」

  「この彼岸は、ひとつの、即自的なもの(自体)であって」
  「『理性』の最初の現象であり」
  「したがって、それ自身として、不完全な現象である。」

  「また、内なるものと、推理的に連結されて、存在するという関係について、悟性がつむ経験を、与える所以のものである。」

β 現象としての超感覚的なもの

  「内なるものは、意識に対して、まだ、純然たる彼岸である。」

  「そこで、現象が、彼岸を媒介するものであり」
  「現象が、彼岸の本質であり」
  「現象が、彼岸を満たす内容である。」

  「感覚的なものと、知覚されるものとの、真実態とは、現象たることである。」

  「現象とは、むしろ、存在する世界としての、感覚的な知識と知覚の世界ではなくして」
  「止揚せられた世界として」
  「或は、真実に内なる世界として、定立せられた場合の、感覚的な世界だからである。」

γ 現象の真実態としての法則

  「『我々』の対象(課題)である、悟性が、いまとっているのは」
  「悟性にとっては、内なるものが、まだやっと、普遍的な充実せられていない、自体として、生成しているにすぎぬという立場」

  「ただ、普遍的なものとしての区別」
  「言いかえると、諸対立が、還元して行った、区別があるだけである。」
  「だから、普遍的なものとしての、この区別こそは、両力の遊戯自身における、単純なるものであり」
  「その真なるものであるが」
  「こういう区別は、力の法則である。」

  「絶対に、交替する現象が、内なるものの」
  「或は、悟性の単純態に、関係することによって、単純な区別となっている。」
   


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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part9

ヘーゲル「精神の現象学」 A 意識 II知覚、或は、物と錯覚 Die Wahrnehmung; oder das Ding und die Tauschung

「対象の原理である、普遍的なものは、単純でありながら、媒介せられたものであるから」
   「対象は、媒介せられたものである、ということが、自分の本性として、自分に具わっていることを、表現せざるをえぬが」
   「そうすることによって、対象は、多数の性質をもてる、物であることを示す」
「感覚的な知識の豊富な、内容は、知覚に所属するのであって」
   「ただ知覚にして、初めて、否定を区別を、言いかえると、多様性を自分も本質において、具えているのである。」

(一)物の簡単な概念


  「ところで、存在が、かく、普遍的なものであるのは、媒介態ないし、否定的なものを、具えることによってであるが」

  「そこで、感覚的な、普遍態、言いかえると、存在と否定的なものとの、直接的な、統一が、性質であるのは」
  「一者と純粋な普遍態とが、統一から、展開せられ、相互に、区別せられたうえで、この、直接的な、統一が、(媒語として)これら、両者を、相互に、連結するかぎりにおい
   て、初めて、成立することであり」
  「この統一が、それぞれ、純粋で、本質的な、右の両契機に、関係して行くことが、初めて、物を完成させるのである。」

(二)物に対する知覚の態度

  「だから、知覚するものにとっては、真理の規準は、自己自同性(自己同一)であり」

  「今や、意識に対して、あるのは、ひとつの感覚的な存在であるが」
  「この意識は、ただ、私念にすぎず」
  「そうして、これは、意識が、知覚から、全く離れ出て、己れ(私)のうちに、帰っていることを、意味している。」
  「しかし、感覚的な存在と、私念とは、自分で、知覚に移って行くから、私は、知覚の出発点に、投げ返され、そうして、再び同じ、循環過程を、即ち、各契機に関しても、全
   体としても、己れを止揚する、循環過程のうちに、引きずりこまれることになる。」

  「かくて、意識は、この循環過程を、再び遍歴するが」
  「しかし、これと同時に、二度目には、最初のときと、同じ遣りかたで、遍歴するのではない」
  「即ち、意識が、知覚についてえた、経験というのは、知覚の結果である、真なるもが、自己解体をきたすこと、言いかえると、真なるものから、己れ自身のうちへの、還帰を
   きたすということである。」
  「この経験によって、意識にとっては、自分の知覚が、本質的に、どんな具合のものであるか、即ち、単純な、純粋な、捕捉ではなくして、自分が、捕捉しているそのことにお
   いて、同時に、真なるものから出て、己れのうちに、還帰してもいるものであることが、明確になってきている。」

  「諸物自身が、即且つ対自的(絶対的)に限定されているのであり」

  「一者であることが、意識によって、引受けられるのは、性質と呼ばれた、当のものが、自由な物質として『表象』されて、初めて、成立することである。」

  「即ち意識が、自己をも、物をも、純粋で、数多性のない、一者とすると、共に」
  「もろもろの独立的な物質に分解するも亦ともし」
  「しかも、代わる代わるそうすると、いうことが分ってくる。」



(三) 制約せられぬ普遍性という悟性の領域への移行

  「物は、対自存在として、定立せられており」
  「言いかえると、あらゆる、他的存在の絶対否定として、定立せられており」
  「したがって、否定がただ、自分自身にだけ関係する」
  「絶対的な否定として、定立せられているが」
  「しかし、否定が、自分自身に関係するというのは、物が、自分自身を、止揚することであり」
  「言いかえると、自分の本質を、他者のうちに、もつことである。」

  「いったい、対象は、感覚的な、存在から、出発して、普遍的なものとなるのであるが」
  「しかし、この、普遍的なものは、感覚的なものから、出てくるのであるから」
  「本質的に、この、感覚的なものによって、制約せられて、物となっており」
  「したがって、決して、真実に、自同的な普遍態ではなくして」
  「ひとつのの対立によって、煩わされた普遍態そのものを、表現しているように見えるけれども」
  「しかし、他者に対する、存在に囚われているところの、対自存在であるに、すぎない。」
  「しかし、対自存在と対他存在の両者が、本質的に、ひとつの、統一において、あるのだから」
  「いまや、制約せられず、物ではない、絶対的な普遍態が、出来上がっており」
  「意識は、ここに初めて、真の、悟性の国に歩みいるのである。」



(四)  総括


  「だから、感覚的個別態は」
  「たしかに、直接的確信の弁証法的運動によって」
  「消失して、普遍態となりはするけれども」
  「しかし、この普遍態は」
  「感覚的普遍態であるにすぎない」
  「私念は、消失してしまっていて」
  「知覚が対象を、即自的に、あるがままに」
  「言いかえると、普遍的なもの一般としてとらえるから」
  「個別態は、知覚においては、真実の個別態として」
  「一者の即自存在として、或は、己れ自身のうちへ、還帰して、あることとして、現れてきているけれでも」
  「しかし、この、己れ自身のうちに、還帰してあることとして、現れてきているけれども」
  「しかし、この己れ自身にうちに還帰しておることも」
  「まだ、制約せられている普遍態が出現してきている。」
  「しかしながら、個別と普遍という、これらの矛盾している両極は」
  「ただ単に、並んであるだけではなく」
  「ただ一つの統一においてある。」
  
  
   



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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part8

ヘーゲル「精神の現象学」 A 意識 I 感覚的確信、或は「このもの」と私念 Die sinnliche Gewissheit;oder das Diese und das Meinen.


「最初に、或は、直接的に、『我々』の問題であるところの知とは」
 「それ自身、直接的な知であるところの、知、即ち、直接的なもの、或は、存在するものの知以外のものでは、ありえない。」

 「即ち、この確信が、自分の知っているものについて、言っているのは」
 「ただ『それが存在する』ということだけであり」

 「この確信においては、自我は、ただ、純粋な『このひと』としてあるにすぎず」
 「そうして、対象もやはり、ただ、純粋な『このもの』として、あるにすぎない。」

 「即ち、意識は、自我であり、これ以上のなにものでもなく、純粋なこのひとであり」
 「そうして、個別的なひとが、純粋な「このもの」を、言いかえると、個別的なものを、知っているのである。」

 「現実的な、感覚的確信というものは、ただ単に、純粋存在という、純粋な直接態(無媒介態)にとどまるのではなくして」
 「この、直接態の実例でもあるが」

 「自我は、他者を介して、即ち、事柄を介して、確信のうちに、あるのである。」


(一)この確信の対象

 「かく本質と、実例との、無媒介と、媒介態との区別があるが」

 「『我々』は、それを、感覚的確信自身において、見出すのである。」

 「ところで、この確信においては、一方のものは、単純な、無媒介に、存在するものとして、或は、本質として、定立せられているが、これが、即ち、対象である。」
 「これに対して、他方のものは、非本質的なものとして、確信において、自体的にあるのではなく、他者を介して、ある、媒介せられたものとして、定立せられているが」
 「これが自我であり、ひとつの知であって」
 「知とは、対象が、存在するが故に、のみこれを知るものであり」
 「そこで、存在することも、存在しないことも、ありうるものである。」

 「知のほうは、対象が存在しない、ときには、存在しないものである。」

 「感覚的確信が、具えているがままの姿において、対象を考察するに、とどめなくてはならない。」

 「このものならぬ、ものでありながら、それでいて、全く一様に『このもの』でも『かのもの』であるところの、単純なもの、我々は、これを、普遍的なものと呼ぶのである。」

 「我々は、この感覚的確信において、私念している通りには、決して、言わないのである。」
 「しかし、言葉は、我々の明らかに見るように、私念よりも、一層真実なものであり」
 「言葉において、我々は、自分の私念を、自分で即座に、反駁するのである。」

 「我々が、自分の私念している、感覚的な存在を、かりそめにも言いうるということは、全然可能ではない。」

 「感覚的確信の真理をもって、普遍的なものであるとは、思わない、我々の私念だけである。」

 「確信は、私念のうちにあり」
 「対象は、自我が、これについて、知るから、存在するのである。」

(二) この確信の主観

 「かくして、感覚的確信の真理の、真理たる効力は、いまや私(自我)のうちに」
 「私が、みること聴くことなどの、直接態のうちにあり、」
 「我々が、私念するところの、個々の今と此処との消失が阻止せられるのは」
 「私が、これらを、固持することによっている。」

 「このさい、消失しないのは、普遍的なものとしての私(自我)であり」
 
 「すべてのこのもののことであり」
 「すべての、此処」
 「すべての個別的なもののことである。」

 「彼らの私念しているのは、いったいいかなるこの物ないし、いかなる、この、私のことであるかを、言えと、きめつけるのは」
 「正当なことであるが」
 「しかし、彼らが、これを言うことは、不可能なのである。」

(三) 主客関係としての確信

 「だから、感覚的確信は、自分の本質が、対象のうちにあるのでも」
 「私(自我)のうちにあるのでもないことを」
 「また(本質であるはずの)直接態が、対象の直接態でも、私の直接態でも、ないことを、経験するのである。」

 「私の私念するところのものは、むしろ、非本質的なるものであり」
 「対象も、私も、普遍的なものであり」
 「そうして、これらの普遍的なものにおいては、私の、私念する、当の今も、此処も、存続せず」
 「言いかえると、存在するのではないからである。」

 「私念される此処は、点でもあるであろうが、点は、存在するのではない。」
 「この点が、存在するとして、指摘されるとき」
 「この指摘自身が、自分は、直接的な知ではなく」
 「私念された、当の此処から、多くの此処を通じて、普遍的な、此処にまで、至る運動であることを示す。」
 「そうして、この普遍的な此処とは、一日が、今の、単純な数多性であるがごとく、此処の単純な、数多性である。」


(四)総括

 「感覚的確信の弁証法が、この確信の運動、ないしは、その経験の簡単な歴史(出来事)以外のものではないこと」
 「いな、感覚的確信自身が、この歴史であるにすぎぬもの以外のものではないことである。」

 「感覚的対象の実在性が、真理であり、確実であると、主張する人々に向かっては」
 「彼らは、智慧の最下級の学校」
 「即ち、ケレスとバックゥスとについての、古のエレウシスにおける、密議に、送り返されて」
 「先ずもって、パンを食らい、ブドウ酒を飲む、奥義を、学ぶべきである、と、言ってよいであろう。」

 「彼らは、もろもろの、外的な対象の定在について語るが」 
 「これらは、より、厳密に言えば、現実的な、絶対に個別的な、全然個人的な、個別的な物であり」
 「おのおのがもはや、絶対に、同一のものをもたぬ、諸物と規定せられうるであろう。」
 「そうして、彼らは、かかる物の、定在が、絶対に、確実であり、絶対に、真理である、と、唱えるのである。」

 「私が、ひとつの、個別的な物と、言うときにも、全く、同様に、私は、その物のことを、むしろ、全く普遍的なものとして、言っている。」
 「なぜなら、いっさいのものが、個別的な、物だからである。」

 「ところで、語るということは、私念を、即座に転じて、或るものとなし、」
 「かくして、私念に、全然、発言もさせない、という神的な本性のものであるが」

 「それを、私は、真にとらえ(知覚する)こととなるのである。」

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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part7

ヘーゲル「精神の現象学」第一部 意識経験の学 緒論

緒論Einleitung


一 絶対者のみが真なるもの、真なるもののみが絶対

  「この結論は『絶対者のみが、真なるもの、言いかえると、真なるもののみが絶対』である」

二 現象知叙述の要

  「「この『己れ』とは、真実ならぬ知において、ある、己れの様態のことであり」
  「したがって、己れの存在の、悪しき様態に、訴えることになり」
  「即自且つ対自にある、己れにというよりか」
  「むしろ、己れの現象に、訴えることになるからである。」

  「此処に現象知の叙述が、企てられなくては、ならないのである。」

三 叙述の方法

(一) 進行の仕かたと必然性

  「魂(ゼーレ)が、己れの本性によって、予め、もうけられている、駅々としての、己れの一連の形態を、遍歴して行き」
  「その結果、己れ自身を、あますところなく、完全に、経験することによって」
  「己れが、本来、己れ自身において、なんであるかについての、知に到着して」
  「精神(ガイスト)にまで純化せられるさいの、道程であると、この叙述は見なされる事が、できるのである。」

  「自然的意識は、自分が、知の概念であるに、すぎないことを」  
  「実在知ではないことを、自証するであろう」

  「この道程は、徹底的に完遂される、懐疑主義である。」

  「かかる、虚栄心は、普遍的なものを避けて、ただ、自分の孤立存在だけを、求めるものだからである。」

(二) 知と真

  「知は、我々の対象であり、知は、我々に対してある。」
  「そこで、探求の結果として、知の自体が、生ずると言っても」
  「この自体は、むしろ、知の我々に体する存在であろう。」

  「意識は、一般に、知の契機という、限定を、具えてはいるが」
  「しかし、同時に、意識にとっては、この『他のもの』は、ただ、単に、意識に対して、あるに、とどまるのではなく」
  「この、関係のそとにも、言いかえると、自体的にもある」
  「これが、即ち、真という、契機である。」

  「即ち、概念と対象」
  「対他的に、存在することと、自ら、具体的に、存在することという、これら、諸契機が、我々の探求する、知ること自身のうちに属しており」
  「事柄を、即自且つ、対自的に、あるがままの姿において、考察することに、我々は、達するのである。」

(三)経験

  「意識は自分自身において」
  「即ち、自分の知においても」
  「自分の対象においても」
  「弁証法的な運動を行うのであるが」
  「この運動から、意識にとって、新しい、真実の対象が、発展するかぎり」
  「この運動こそ、まさに、経験と呼ばれているものである。」

  「さて、意識は、或るものを、知るが」
  「この対象が、実在、ないし、自体ではある。」
  「しかし、この対象は、意識に対しても、また、自体であるから」
  「これによって、この『真なるもの』がもつ、二重の曖昧な意義が、はいりこんでくる。」
  
  「今や意識は、二つの対象をもっっており」
  「その、一方の対象は、最初の自体であり」
  「第二の対象は、この、最初の、自体の意識に体する、存在である」

  「意識の運動のうちに、自体存在ないし、我々に対する、存在、という、ひとつの契機が、介入してくるが」
  「この契機は、経験そのものに、没頭しているところの、意識に対しては、あらわれてこないものであり。」

  「この道程は、意識の経験の学である。」

  「この立場において、現象は、本質にひとしくなるから」
  「意識の叙述は、まさに、精神の、固有の立場と、一致することになる。」
  「そうして、最後に、意識自身が、(精神であるという)己れの本質を把握するときには」
  「意識は、絶対知自身の本性を示すであろう。」
  

  
  
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