Aska Temple

All about John Ubel and Aska Temple

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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part6

ヘーゲル「精神の現象学」 序文 四 (二)(三) 結語


四 哲学的思索

(二)否定的態度における論弁的思惟、肯定的態度における論弁的思惟、その基体


   「論弁は、虚ろな、自我のうちへの、還帰であり、反省であり、己れの知についての、うぬ惚れであり、虚栄でありことになる。」

   「この思惟の肯定的な、認識においえは、『自己』とは『表象』せられた基体(主語)のことであって」
   「これに、内容が、属性及び、述語として、関係して行くのであり」

   「こうして、内容は、じつは、もはや、基体(主語)の述語(附加語)ではなくして」
   「むしろ実体であり」
   「語られている当のもの(主語)の本質であり、概念である。」

   「表象的思惟は基体(主語)から出発するが」
   「しかし、述語こそ、むしろ実体であるから」
   「この思惟は、主語が、述語のほうに移行してしまい」
   「主語は、もうなくなっているのを、見出すのであり」
   「また、述語であるかに見えるものが、却って、全体としての独立の重みをもつものと、なっていしまっているから」
   「この思惟は、自由にあちこちと、うろつき廻ることはできず、むしろ、この重みによって、さまよいを抑止せられているのである。」

   「即ち、判断ないし、命題一般の本性は、主語と述語との区別をふくんでいるが」
   「この、本性は、思弁的命題によって、破壊せられるのであり」
   「最初の命題一般は、同一性命題に、なって行くのであるが、」
   「この、同一性命題が、命題一般の含むかの(普通の)関係に体する反撃(ショック)を含んでいるのである。」

   「主語と述語との、同一性が、命題の形式が、示している、両者の区別を、無にすべきではなくして」
   「両者の統一は、一種のハーモニーとして、出現すべきなのである。」

   「命題の中身を、区別する、アクセントのことであるが」
   「これに対して、述語がかえって、実体を表現し、」
   「主語自身が、(これを述語と共に含む)普遍者に帰するということは、統一であって」
   「ここでは、かのアクセントは、もう響かなくなるのであう。」

   「述語自身が、主語であること、存在であること」
   「本質(実在)であることが、言明されており」
   「しかも、この本質が主語の本性を、言いつくしているのだから」
   「思惟は、述語のうちにも、いきなり、主語を見出すのであり」
   「そこで、今や、思惟は、述語から、己れのうちに、帰って、論弁するものとしての、自由な位置を、獲得するのではなくして」
   「なお内容のうちに、没頭している。」

   「『現実的なものは、普遍的なものである』」
   「と、言われる場合も、主語である、『現実的なもの』は、その述語のうちに、消えて行く」
   「『普遍者』が、ただ単に、『述語』の意義を持つべきであるにすぎず」
   「したがって、この命題が『現実的なものは、普遍的である』ということを、言表しているのではなく」
   「普遍的なものは、現実的なものの、本質を、表現すべきなのである。」
   「だから、思惟は、主語において、もっていた、確固たる、対象的地盤を失っていると共に」
   「また述語において、主語に向かって、投げかえされて、いるのであり」
   「述語において(論弁のごとく)己れのうちに帰って行くのではなく」
   「内容の主語(主体)のうちに、帰って行くのである。」


   「この運動こそ、命題自身の弁証法的運動であり」
   「ひとり、この弁証法的運動のみが、現実に、思弁的なものであり」
   「そうして、ただ、この運動をいいあらわすことのみが、思弁的な叙述である。」

   「しかし、真なるものは、本質的に、『主体』であり」
   「主体として、真なるものは、ただ、弁証法的運動たるのみであり」
   「即ち、ただ、己れを生産して、先に、導いて行きながら、己れのうちに帰って行く歩みたるのみである。」

   「そこで、弁証法的運動自身について言うと」
   「その境地は、純粋概念であり」
   「したがって、弁証法的運動も、或る内容をもっているが」
   「この内容たるや、それ自身において、徹頭徹尾、主体である。」
   「だから、根底に横たわる主語としての位置をとり」
   「この主語に意義が、述語として、附け加わるというような、如何なる内容も、出現してはこない。」


(三) 健全な常識としての、また天才の霊感としての自然的な哲学思索


   「真実の思想と、学的な透見とは、ただ、概念の労苦においてのみ、かちえられるものであり」
   「ひとり、概念のみが、知識の普遍性を、生み出すことが、できるのであるが」
   「この『普遍性』は、普通の、普通の常識の、曖昧さと、貧弱さとではなくして、教養をつんで、完成した、認識のものであり」
   「また、概念の与える、知識の普遍性は、天才の怠惰と、自負とで、台なしにされつつある、理性素質の普通ならぬ、普遍性でもなくして」
   「土着固有の形式にまで、成熟した、真理のものである」
   「そうして、かかる、真理にして、初めて、すべての、自己意識的理性にとって『自分のもの』であることができるのである。」



結語 著者の公衆への関係

   「それは、じつは、純粋概念以外のなにものでもなかったと、解せられるうべき、時代もあった。」

   「まだまだ、やっと、特殊態に属している確信が、何か、ひとかどの、普遍的なものであることを、経験せんがために」
   「公衆をうる、という効果を、必要とすることも」

   「別する必要のあること、しばしばである。」

   「そうして、精神の普遍性は、その支配を、あくまで、全範囲に及ぼして、富を形成しようとし、また、これを要求してやまない。」
   


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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part5

ヘーゲル「精神の現象学」 序文 四 (一)

序文 四  哲学的思索

(一) 哲学研究にさいしての条件

    「学の研究にさいして、肝心なことは、概念の努力を、自分で、引き受けるということである。」

    「即ち、例えば、即自存在、対自存在、自己同一等々、のごとき、単純な、諸規定に、対して、注意を集中することを、要求する。」

    「自分の思いつきで、勝手に、諸概念に内在する、リズムに侵入するのを、差し控えること」
    「気まぐれや、他の場合にえられた、知恵によって、このリズムに介入しないようにすること」

    「こういう抑制が、すでに、それ自身、概念に対して、注意を集中することの、本質的な契機である。」
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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part4

ヘーゲル「精神の現象学」 序文 三 

序文三 哲学的真理

(一)いかなる程度にまで精神の現象学は否定的であるか、言いかえると、偽なるものを含むか

   「ここでは、いったい偽なるものとしての、否定的なものに関して、事態は、どのようにであるか、という側面から、答えることができる。」

   「偽なるものとは」
   「知の内容として、真なるものであるところの、他者であり」
   「それにとっての、否定的なものとも、考えられるであろうけれども」
   「しかし、実体自身が、本質的に、否定的なものである」
   「即ち、一方では、内容を区別し、規定することとして、否定的であり」
   「他方では、単純な、区別を立てることとして、否定的なものであるが、」
   「このさい、単純な、区別を立てる、というのは、一般に、自己と知とを、区別することを、意味する。」

   「いったい主体と客体との統一」
   「また有限と無限との」
   「存在と思惟との統一などという表現は」
   「『主体』『客体』などの、それらが、統一のそとにおいてあるところのものを、意味し」

   「哲学の研究における、思惟様式であるところの、独断論とは」
   「或は、また、無媒介に知られる、ひとつの、命題に存する、と思い込む『私念』以外のものではない。」

(二)歴史的真理と数学的真理

   「この認識は、欠陥があるのに、明証性をもっているが」
   「この明証性こそは、数学が誇りとし」
   「また、数学をして、哲学に対して、昂然たる、態度をとらせる、所以のものである」

   「数学の目的ないし概念は、量であるが」
   「これこそ、まさに、非本質的な、没概念的な関係である」

   「数学の考察する、唯一のものは、量という、非本質的区別なのである」
   「空間を、その諸次元に分ち」
   「それらの、また、それらにおける、諸結合をきめるものが、概念である、ということを、数学は、捨象して、顧みない。」

   「時間とは、『そこ』に存在する概念そのものである。」
   「しかし、量という、没概念的な区別の原理と、相等性という、抽象的で、生命のない統一の原理とは」
   「時間という、生命のかの、純粋な、不安定と、絶対的な区別とを、相手とすることは、できない。」
   「(時間本来の)この否定性は、ただ、麻痺されてしまうだけであり」
   「即ち、麻痺されて、一として数学という、この認識の第二の素材とあるだけであるが」


(三)哲学的真理とその方法との本性、図式化する形式主義への反対

   「真理とは、全くそれ自身における、自己運動であるのに」
   「かの方法は、素材に外面的な認識である。」

   「これらは、すべて、いずれも、一は他と同じく、死せる悟性と、やはり、外面的な認識のしわざである。」

   「第一の運動においては、否定性とは、区別する、ことであり、定在を、定立することであるが」
   「第二の自己内還帰においては、否定性とは、限定せられた、単純態の生成することである。」

   「内容が、自分で、自分の限定を与え」
   「自発的に、己れを契機せしめ」
   「全体における、或る位置に、列せしめるということが、成りたつのである。」


   「実体は、それ自身においては、主体であるが」
   「一般にこのことによって、あらゆる内容は、自分自身で、自分のうちに還帰し、反省するものである。」
   「さて、或る定在の存立ないし、実体とは自己同一のことである」

   「自己同一とは、純粋抽象のことであり」
   「純粋抽象とは、思惟のことである。」

   「定在は、本質的には、思惟されたもの(思想)である。」

   「『存在は、思惟である』ということが、概念的に把握せられており」

   「学は、主張する、独断論に代わって、断言する、独断論、ないし、自己確信の独断論として、登場してきた」
   「あの、観念論を、とるものではなく」
   「かえって、知は、内容が、自分自身の内面に帰って行くのを、観ているものであることによって」

   「実体を、自己として、意識する、側面から、悟性の意義を、述べたが」
   「ここに言ったことから『存在する実体』としての、実体の規定からする、悟性の意義は、明らかである。」

   「定在とは、質のことであり」
   「自己同一的な限定のことであり」
   「言いかえると、限定的な、単純態であり、限定的に、思惟されたもの(思想)であるが」
   「このことが、定在の『悟性』である。」

   「定在が、種と限定せられること、まさに、このことによっては定在は、単純な思想、ヌース、単純態であり、即ち実体である。」

   「思惟の単純態とは、自分自身で運動し、区別を立てる、思想のことであり」
   「また、己れ自身の内面性にかえることであり、」
   「即ち、純粋な概念なのである。」
   「かく解したときには、悟性性も生成であり」
   「そうして、かく生成であることによって、悟性性もまた、理性性なのである。」

   「この必然性だけが、思弁的なものなのである。」
  


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煙草増税議員らは、ヤクザから麻薬販売促進を頼まれている

煙草増税議員等は、ヤクザから、麻薬販売促進を頼まれ、リベートを受け取っている。
こんなストレスの多い、現代社会で、煙草無しで、どうやって生きろというのか?
ストレスの無い、おぼっちゃまエリートサラリーマンには、こんな底辺で生きる者の、心情なんてわからんだろう。
ヤクザから金もらっといて、なにが、煙草増税だ。
これ以上、煙草の値段が上がったら、麻薬常習者だらけになるぜ。
即刻、ヤクザからのリベートを返して、煙草の値段を下げよ。
麻薬販売促進議員!!!
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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part3

ヘーゲル「精神の現象学」 序文 二 (三)

序文二 精神の現象学

(三)表象されたものと熟知されたものとを思想に転換すること、さらにこれを概念に転換すること

   「『そこ』に存在するもの(定在)を止揚するということであるが」
   「これに対して、まだ残っていて、一層高次の再形成を、必要とするものは、表象であり」
   「もろもろの形式を、よく熟知していることである。」

   「表象を、分析することとは、普通に、行われているようなものであっても、すでに表象の熟知されているという形式を、なくすることより、以外のものではなかった。」

   「分解の働きというものは、悟性という、最も驚嘆すべき最も大きい、或は、むしろ、絶対的な威力の勢力であり。」
   「わざである。」

   「これは、悟性が、この美に、その能くせざることを、要求するからである。」
   「しかしながら、精神の生というものは、死を避け、荒廃から、おのれを、清く保つ生のことではなくして、死に耐え、死のただなかに、己れを保つ生のことである。」
   「精神が、その真実態をうるのは、ただ、絶対の四分五裂の、ただなかに、ありながら、そのうちに、己れ自身を、見出すことにのみよっている。」

   「そうでなく、精神が、かかる威力であるのは、ただ、否定的なものを、面と向かって、まざまざと、見詰め、そのそばに、足を、止めることにのみよっている。」
   「しかし、この、足を止めるということこそは、否定的なものを、存在に、転換するところの、魔法の力なのである。」
   「魔法の力からこそは、さきに、主体と呼ばれたところのものと、同じものである。」
   「この魔法の力こそは、さきに主体とよばれたところのものと、同じものである。」
   「主体とは、限定に、おのれの場面のうちで、定在をあたえること」

   「ただもう存在するにすぎぬ、直接態を、止揚し、そうすることによって、真実の実体であるところのもの」
   「即ち、存在であり、無媒介でありながら、媒介を、己れの、そとにもつのではなく、却って、媒介そのものであるところのものであったが」
   「こういう主体と、右の魔法の力とは、同一のものなのである。」

   「表象せられていたものが、純粋自己意識にとっって『自分のもの』となること」
   「かく、普遍態一般にまで、高まることは、(表象を転換する作業の)ただ、一面であるにすぎないのであって」
   「教養(形式)は、これをもって、完成したわけではない。」

   「固定的な限定的な諸思想を、止揚することによって、」
   「普遍的なものを、現実化し、」
   「それを、精神に吹き込むのである。」

   「固定性を放棄する、こういう、運動によって、(悟性の)純粋な、諸思想は(理性の)諸概念となり」
   「諸思想は、此処に初めて、それらが、真実態において、そうであるところの、もの、即ち、もろもろの自己運動であり」
   「もろもろの循環であり」 
   「また、諸思想は、これらの実体が、そうであるところの、もろもろの、精神的な本質態である。」

   「この道程は、概念の運動によって、意識の、世界性を、その、必然性において、剰すところなく、包括することであろう」

   「精神の定在は、最初のものとして、直接的なもの、或は始め以外のものではなく」
   「しかも、この始めたるや、まだ、自己のうちにへの、還帰ではないところの、初めだと、いうことである。」
   「だから、直接的定在という境地ということが、学のこの部門を、其他の部門から区別する、所以の限定であることになる。」


   「精神の直接的な、定在である意識は、知ること、と、そうして、これに対して、否定的な、対象性という、二つの契機を、もっている。」

   「かかる道程の学は、意識は行う経験の学であり、」
   「ここでは、実体は、実体とその運動とが、どのように、意識の対象であるか、という観点から、考察せられる。」

   「経験のうちに、あるものは、実体は、実体でも、ただ、精神的な実体だけであり」


   「精神とは、己れにとって、他者、即ち、己れの自己の対象と、なりながら」
   「それでいて、この他的存在を、止揚するという運動だからである。」


   「およそ、直接的なもの、まだ、経験せられていないもの」
   「即ち、抽象的なものが(いったん意識にとって)己れから、疎外し」
   「しかる後に、この疎外から、己れに、還帰し」
   「こうして、今や、初めて、抽象的なものが、その現実態と、真実態とにおいて、表現せられ」
   「また、意識にとっても『自分のもの』となるところの運動」
   「まさに、この運動こそは『経験』とよばれるものにほかならないのである。」

   「かくして、実体は、自分が、本質的には、主体であることを、示すのであるが」
   「実体が、このことを、完全に示したとき」
   「精神は存在し、存在するがままに、己れの対象であり」
   「直接態という、また知と真との、分離という、抽象的な境地とは、克服せられている。」
   「存在は、絶対的に、媒介せられており」
   「自己的であり、即ち概念である。」
   「これをもって、精神現象学は完結する。」
   「精神が、現象学において、自分に、用意するものは、(絶対)知の境地であり」

   「そうして、諸契機が、この境地のうちにおいて、己れを全体にまで、有機的に、組織づけるところの、運動が、論理学、或は思弁哲学である。」



  


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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part2

ヘーゲル「精神の現象学」 序文 二 (一)(二)

二、精神の現象学

(一)絶対者は主体であること、そうして主体とはなんであるか


   「真なるものを、ただ単に、実体として、把握し、且つ、表現するだけでなく」
   「全く同様に、主体としても、把握し、表現する、ということである。」

   「生ける実体とは、存在ではあっても、真実には、主体であるところの存在」
   「或は、言いかえると、真実に、現実的であるところの存在であるが」

   「『即自』というのは、抽象的な普遍態のことであって」
   「対自的に存在するという『即自』の本性は、度外視されており」

   「真なるものは、全体である。」
   「しかし、全体とは、ただ、自己展開を通じて、己れを、完成する実在のことに、ほかならない。」

   「媒介とは、自己自身のうちへ、帰って行く反省のことであり」
   「対自的に存在する、自我という、契機であり」
   「純粋否定であり」
   「単純な成ること(生成)だからである。」

   「『理性とは、合目的な為すことである』」
   
   「この自分では、動かないで、他を動かすものとは、主体のことであり」

   「対自的に自分だけで、存在することであり」

   「主体は、固定な点(主語)であると、想定せられ」
   「これを、拠点として、もろもろの、述語が、くっつけられるのであるが」

   「精神的なるものは、(第一には)実在ないし即自的に存在するものであり」
   「(第二には、他者に)関係するものであり、限定せられたものであり、他的存在と、対自存在とであり」  
   「(第三には)かく限定せられており、言いかえると、己れのそとに、存在しながら、己れ自身のうちに、止まるものである。」
   「精神的なものは、即自且つ対自的に、存在するのである。」

   「かく展開して、己れの精神であることを、知っている、精神が学である。」
   「学とは、精神の現実態であり、」
   「精神が、自分自身の場面において、建てる、王国である。」

(二)知の境地(場面)、この境地にまで高めるものが精神の現象学であること

   「絶対の他的存在のうちにおいて、純粋に、自己を認識すること」

   「この境地は、単純な、直接態という様態を、もっている普遍的なものとして、純粋精神性であり」

   「この境地、精神の、この直接態は、精神の実体的なもの一般であるから」
   「この直接態は、直接態ではあっても、変容された、本質態であり」
   「反省でありながら、己れ自身のうちへの反省である。」

   「個人というものは、絶対的形式のものだからであり」
   「個人は、己れ自身についての、直接的な確信をもっている、ということになり」
   「個人は、無制約的存在だから、ということになる。」

   「かかる現実性を、欠いているときには、学は、ただ、即自的なものとしての内容であるに、すぎず」

   「この即自的なものが、おのれを、外化して、自分で、対自的と、ならなくては、ならないが」
   「これは、即ち、即自的なものが、自己意識をもって、己れと一なるものとして、定立することより以外のことを、意味するのではない。」

   
   「学の境地を生産するためには、最初の知は、長途の道を、通じて、労苦しなくては、ならない。」

   「(現象学においては)個人を、その教養せられていない段階から、(絶対)知に、導く、という課題が、その、普遍的意味において、把握せられなくてはならなかったし」
   「また、普遍的個人、自己意識的精神が、その教養の過程において、考察されなくてはならなかった」
   「(特殊的)個人と普遍的な個人という両者の関係ついて言うと」 
   「普遍的個人にいては、いかなる契機も、具体的形式と、独自の形態とをえた姿で現れてくるのに」
   「特殊的個人のほうは、不完全な精神であって、具体的形態ではあっても、この形態の、定在全体にわたって、ただひとつの限定だけが、主と、なっていて」
   「その他の諸限定が、現に、あるのは、かき消されてぼんやりした姿に、おいてであるにすぎぬ。」
   「そうして、或る精神より、高次の段階に立つ、精神においては、」
   「より低次の具体的定在は、ひとつの、目立たぬ契機におとされており」

   「かかる過去を、高次の精神をもって、自分の実体とする、個人が、遍歴するのではあるが」
   「このさい遍歴の仕かたは、より、高級の学問に取りかかる人が、自分のずっと前から、内面的にもち、マスターしているもろもろの予備知識を、その内容を、心にありあり 
    と、現前するために、ひとつひとつたどるがごとくである」

   「個人は、普遍的精神の、諸教養段階を、遍歴しなくてはならないけれども」
   「このさい、普遍的精神は、個人の実体を形づくり」  
   「したがって、個人にとっては、外面的のように、思われるところの、有機化されていない、自分の自然をなしている」

   「実体たる普遍的精神の側からすると」
   「この実体が、己れに自己意識を与え」
   「己れの生成と、自己内反省とを、生み出すことより以外のことではない。」

   「個人の実体は、まことに、世界精神でさえも」
   「諸契機という、これらの形式を、時の長き延長にわたって、遍歴することを、耐え忍んだのであり」
   「また、世界史の諸形式において、それぞれの能うかぎりの、全実質を、形成し出したという、巨大な労苦を、引き受けることを、耐え忍んだのであり」
   「しかも、世界精神は、これ以上の労苦をもってしては、己れのなんであるかについての、自覚に到達しえなかった。」

   「事は、即自的には、すでに、成就せられているからである。」

   「むしろ、すでに、内面化せられた、即自を対自存在の形式に転換することだけである。」
 

 


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鎌倉時代の遺跡

UBELの住む、明日香村、キトラ古墳の近くで、
鎌倉時代の住居跡が発掘されている。

UBEL家が、朝鮮半島から、日本に帰化したのは、
モンゴルの来襲に敗れて、逃げて来た、鎌倉時代から。

それ以前は、ファンラン(花郎)と、呼ばれる、朝鮮貴族の芸術家集団だったらしい。

鶴橋駅で、在日の女の子から、
良いクラシックギターをもってる長髪の、僕を観て
「ファンラン、裏切り者!」
と、ハングル語で叫ばれた。

まあ、UBEL家には、ドイツ人の血も入ってる、高取城士族の、立派な日本人ですけどね。

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ASKATEMPLE 形而上学シリーズ

もう、まったくネタ切れ状態の、ASKATEMPLE=JOHN UBELですが、
結局、学生時代の続きの哲学学習をやっています。
これを。そのまま、次作にするつもり。

ASKATEMPLE METAPHYSICS

PART1 アリストテレス
PART2 カント
PART3 ハイデッガー
PART4 ヘーゲル
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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part1

ヘーゲル 精神の現象学

序文  Vorrede 学的認識について


    「哲学は、本質的に、特殊的なものを、内包している、普遍性、という場面のうちに、生きているのであるから」

    「一は他と同等に、必然的であり」
    「そうして、かく同等に、必然的であることが、初めて、全体の生命を、形作るのである。」

    「事柄は、その、目的において、尽くされているのではなく」   
    「尽くされているのは、実現においてのことであり」
    「また、結果も、現実的な、全体ではなくして」
    「そうであるのは、生成といっしょにされたときのことである。」
    「目的は、それだけでは、生命のない、普遍的なものであり」

    「即ち、もろもろの、普遍的な原則と見地とを、獲得すること」
    「先ずもって、事柄一般の思想にまで、努力して、向上すること」
    「事柄を支持するにも。反駁するにも、理由をもってすること」
    「具体的で豊かに、充実した内容を、諸限定にしたがって、把握すること」
    「さらに、この内容について、しっかりした、決定とまじめな判断をくだすすべを、心得ること」


一、現代哲学の課題

(一)真なるものの場面は概念であり、そうして概念の真実の形態は学的体系であること

    「真理は、ただ、概念においてのみ、現に、存在するための、場面をもつと主張せられたのであるが」

    「即ち真理は、或は直感、或は絶対者の直接知、宗教、存在ーしかも心的愛の中心における存在ではなくして」
    「この中心そのものの存在ーと呼ばれるところの、ものにおいてのみ、現存すると、考えられているのであるが」

    「絶対者は、概念的に把握せられるべきでなく、感ぜられ、直感せられるべきであり」

(二)精神の現在の立場

    「自己意識的な精神が、現在において、立っている段階に注目すると:

    「精神は、哲学から、己のなんであるか、についての、知を望む、と、いうよりか、むしろ、もう一度、かのかつての、実体性と、存在の、堅固さとの、再興を、成就する
     事を、望んでいる」

    「実体を自己意識の水準にまで、高めるべきである」
  
    「実在についての、感情を、再興すべきだと、いうのであり」

    「概念がではなくして法悦(忘我)が、事柄の冷やかに、進展する、必然性がではなくして」
    「たぎり立つ霊感こそは、実体の富をとらえ、また、次第に、展開して行くものだと、いうのである。」

(三)原理は完成ではないこと、形式主義に対する反対

    「悟性とは、思惟することであり、純粋自我一般であり」

    「『たしかに、今は、この定在について、なにか、或るもの、として、語られはするが、しかし、絶対者のうち、では、A=Aのうちでは、かかるものはまったくなく、そこ
     では一切は一である』」


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カント「純粋理性批判」を読む Part 25 最終回

カント 「純粋理性批判」 補遺 二 三


補遺二

第三節 対象一般に対する悟性の関係と対象の先天的認識の可能性について

純粋悟性概念のこの演繹の正当にして唯一可能的なることの要約

     「純粋悟性概念は、先天的に、可能的である」


補遺 三 純粋理性の誤謬推理について

第一 実体性の誤謬推理

純粋心理学の第一誤謬推理の批判

第二 単純性の誤謬推理

先験的心理学の第二誤謬推理の批判

第三 人格性の誤謬推理

先験的心理学の第三誤謬推理の批判

第四 (外的関係の)観念性の誤謬推理

    「ゆえに、外官のあらゆる対象の、現存在は疑わしい」

先験的心理学の第四誤謬推理の批判

    「外物の現存在を推論するのみである」

    「先験的観念論と経験的観念論とが、必然的に区別せられねばばらぬ」

    
これらの誤謬推理に準拠せる純粋心理学の総体に関する考察

                         end
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カント「純粋理性批判」を読む Part24

カント 「純粋理性批判」 補遺 一 二


補遺一

目次

緒言

一、先験的原理論

第一部 先験的感性論
 第一節 空間について
 第二節 時間について
第二部 先験的論理学
 第一門 先験的分析論 二篇とその数多の章節とから成る
 第二門 先験的弁証論 二篇とその数多の章節とから成る

二、先験的方法論

 第一章 純粋理性の規律
 第二章 純粋理性の規準
 第三章 純粋理性の建築術
 第四章 純粋理性の歴史


補遺二

純粋悟性概念の演繹

第二節 経験の可能性に対する先験的理由について

(一)直感における覚知の綜合について
(二)構想力における再現の綜合について
(三)概念における再認識の綜合について
(四)先天的認識としての範疇の可能性に関する予備的説明


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カント「純粋理性批判」を読む Part23

カント「純粋理性批判」2.先験的方法論  第三章 第四章


第三章 純粋理性の建築術

    「私が、建築術と名づけるものは、体系の術である。」

    「われわれの認識は、理性の支配をうけるかぎり」

    「一個の理念のもとにおける、多様なる認識の統一である。」

    「全体は組織されている」
    「集積されているのではない。」

    「その一本の幹がすなわち、理性である。」
    「だから、私は、理性的なものと、経験的なものとを、対立せしめることとなる。」

    「認識は歴史的である。」

    「すべて、理性認識といわれるものは、概念からか」
    「あるいは、概念の構成から由来する」
    「前者は哲学的」
    「後者は数学的という」

    「哲学は、この意味においては、すべての認識が、人間理性の、本質的目的に対して、有する、関係の学である」

    「すべての哲学は、しかし、純粋理性の由来する認識であるか」
    「あるいは、経験的原理に由来する、理性認識かである」
    「前者は、純粋哲学」
    「後者は、経験的哲学という。」
    
    「純粋理性の哲学は、理性能力を、あらゆる、先天的純粋認識に関して、研究する予備(予習)であるか」
    「あるいは、純粋理性の体系(学)、すなわち、体系的関連を、なせる」
    「前者は、批判といわれ」
    「後者は、形而上学といわれる」

    「形而上学は、純粋理性の、思弁的使用の形而上学」
    「実践的使用の形而上学とに分かれる」
    「すなわち、自然の形而上学と、道徳の形而上学という。」

    「狭義における、形而上学は、先験的哲学と、純粋理性の自然学とより成る」
    「純粋理性の自然学は、自然を考察する」
    「換言すれば、与えられた、対象(それが、感能において、与えれるにせよ、あるいは、多種の直感においてーといってもよいー与えれるにせよ)の総括を考察する」

    「理性的自然考察における、理性使用は、自然的か」
    「あるいは、超自然的かである」
    「内在的か、超験的かである。」
    「前者は、理性の認識が経験において(具体的に)適用されるかぎりにおいて、自然をめざし」
    「後者は、経験の対象のーいっさいの経験を超絶するー連結をめざす。」
    「前者は、全自然の自然学、すなわち、先験的世界認識であって」
    「後者は、全自然と超自然的存在体との、関連の自然学、すなわち、神の、先験的認識である。」

    「形而上学の全体系は、四つの主要部門より成る
    (一) 存在論
    (二)合理的自然学
    (三)合理的宇宙論
    (四)合理的神学

    「第二部門、すなわち、純粋理性の自然学は、二分科を含む」
    「合理的物理学と、合理的心理学とを。」

    「経験的心理学は、形而上学からは、断然追放せられなばならぬ」

第四章 純粋理性の歴史


    (一)「われわれのすべての、理性認識の対象に関しては、」
       「或る人々は、単なる、感能論者」
       「他の人々は、知性論者であった。」
       「エピクールは、もっとも、重要な感能論者」
       「プラトンは、もっとも、重要な、知性論者といえよう」
       「感能論者達は、主張した『感能の対象においてのみ、現実在が存する、その他は、すべて空想である』と。」
       「知性論者は、言う『感能において、現れるものは、仮象のみ、悟性のみが、真なるものを、認識する』と」

    (二)「アリストテレースは、経験論者の第一人者として」 
       「プラトンは、知性論者のそれとして、看做されうる」  
       「近世にいたって、ロックは前者に」
       「ライプニッツは後者に」


    「私が、ここで、独断論者としては、かの有名なウォルフを」
    「懐疑論者としては、デヴィドヒュームを挙げれば」


    「すなわち、いかなる、時代にも、人間理性の知識欲を悩まして、しかも、これまでは、無益に了った事柄において、理性を、完全に、満足せしめることが、現世紀の過ぎ  
     去らぬうちに、成就せられぬであろうかを」



                                        fin
     


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カント「純粋理性批判」を読む Part22

カント「純粋理性批判」2.先験的方法論  第二章 第二節 第三節

第二章 
第二節 純粋理性の究極目的の限定理由としての最高善の理想について


    「思弁的使用における、理性は、経験界において、決して、満足を、見出しあたわぬがゆえに、かれは、経験の分野を、通り過ぎて、思弁的理念へと、われわれを、導い
     たのである」
    「しかるに、この理念なるものは、結局は、ふたたびわれわれを、経験に連れ戻すもので」
    「しかるに、この理性の意図を、遂行する仕方は、もとより、有益ではあるにしても」
    「決して、われわれの期待に添うものではない。」


    「実践的使用における、純粋理性も、見出されはせぬか」

    「私の、理性のあらゆる関心(思弁的および、実践的)は、次の三問題において、結合せられる
     一、なにを、私は、知りあたうか
     二、なにを、私は、なさねばならぬか
     三、なにを、私は、希望しうるか

    「第一の問題は、まったく思弁的である。」
    「第二の問題は、まったく実践的である」
    「先験的でなくして、道徳的である」
    「第三の問題はー実践的にして、同時に、理論的である」

    「私はこれを、道徳的世界と名づける」

    「この世界は、単に、可想的世界として、思惟せられる。」
    「しかし、実践的なる理念であって」
    「感性界に対しては、勢力を、有することが、できるし、また、有すべきはずである。」
    「道徳的世界という理念は、それゆえに、客観的実在性を有する」
    「道徳的世界の理念は、感性界における、理性的存在者の神秘的団体である。」

    「幸福であるのに、ふさわしくなるように行為せよ」
    「道徳的原理が、実践的使用における、純粋理性によって、必然的であると、同様に、各人が、幸福の享受に値する、行動をした程度に従って、幸福を希望する理由を、
     有すること」

    「幸福が(幸福であることのふさわしさとしての)道徳性と、厳密な釣合をなしているかぎりにおいて」
    「私は、最高善の理想と名づける。」

    「ライプニッツは、世界において、最高善の支配の下における、理性的存在者および、理性的存在相互の、道徳律に、従える、関連のみが、着目されるかぎり」
    「この世界を、恩寵の国と名づけ」
    「これを、自然の国と区別した」
    「かくして、恩寵の国においては」
    「あらゆる、幸福がわれわれを、待っているのであるが」   
    「この国にあることは、理性の実践的必然的理念なのである。」

    「この世界は、もとより、単に、可想的世界である」
    「なぜなら、感性界は、物の本性に関して、決してかくのごとき、目的の、体系的統一を、約束せぬからである」

    「この意志は、全能でなければならぬ」
    「全知でなければならぬ」
    「それは、永劫的でなければならぬ」

    「かくして、自然神学は、先験的神学へ導く」
    「後者は、最高の実体論的完全性の理想をもって、体系的統一の原理となすが」
    「この原理は、すべての、物を普遍的必然的自然法則に従って連結する」
    「なぜというに、物を、すべて、唯一の原体の絶対的必然性において、その起源を有するからである。」

    「けだし、独立的原因、すなわち、全智なる、世界支配者、という前提に、われわれを、到達せしめたものこそは、まさに、道徳律である」


第三節 私見 知識および信仰について


    「意見は、われわれの悟性における事象であるが」
    「その意見があらゆる理性者に対して、妥当する場合には」
    「それが、主観の特殊的性質の根拠を有するにとどまる場合には、」
    「これを、定見という」
    「それが、主観の、特殊的性質に根拠を、有するにとどまる場合には、これを、我見という。」
    「我見は単なる、仮象である」

    「意見すなわち、判断の主観的妥当性は(同時に、客観的に妥当するところの)定見に関して、三段階を有する」
    「私見と、信仰と、知識と」
    「私見というのは、主観的にも客観的にも、意識的に、不十分なる意見である」
    「意見が、主観的には、十分であるけれども、しかも、同時に、客観的には、不十分であるという場合には、これを、信仰という」
    「主観的充足性は(私自身にとって)定見といい」

    「純粋理性からなされる判断においては、私見を立てることは、断じてゆるされない。」


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カント「純粋理性批判」を読む Part21

カント「純粋理性批判」2.先験的方法論  第二章 第一節

第二章 純粋理性批判の規準

     「理性は実践的使用という今」
     
     「私は、規準という語によって、ある種の、認識能力を、一般に、正しく使用するための、先天的原則の、総括を意味する。」
     「一般論理学は、その、分析的部門によって、悟性、および、理性一般に対する、規準である」
     「しかし、すべての内容を捨象し去るがゆえに、形式としてのみの、規準である。」

     「理性の実践的使用に関するであろう」
     「われわれが、今や、実践的理性使用を攻究せんとする所以なのである。」

第一節 我々の理性の純粋使用の究極目的について

     「理性の思弁が、先験的使用において、結局、到着する、究極的意図は、ー意志の自由、心の不滅、および、神の存在という、三つの対象と、関係する。」

     「思弁的理性からいうと、これら、三つの命題は、つねに、超験的である。」

     「ただ、実践的なるものにのみ、関せねば、ならぬであろう。」
     「すべて自由によって、可能なるものは、実践的である。」

     「道徳律のみが、純粋理性の、実践的使用に属し、そして、規準を許容する。」

     「私は、さしあたって、自由という概念を、実践的意味においてのみ用い」
   
     「感性的にのみ、規定されあたう、決意性は、単に、動物的である。」

     「しかるに、感性的衝動から、独立で、したがって、理性からのみ、表象せられる、動機によって、規定せられあたう、決意性は、自由(自由なる決意性)である」

     「理性の法則は、命令、すなわち、自由の、客観的法則であって」


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クリスチャンといっても何処の教会に属しているわけでもない。

ST.ANDREW アンデレ教会は、スコットランドの教会で、イギリス国教会がバックにあります。
ST.ANDREW'S BOY'S HIGHSCHOOLには、カンタベリーホールというのがあり、そこで、LIVE演奏したりしました。


ドイツプロテスタントの牧師を、やっていたのは、3歳の時、三ヶ月だけで、ずっと休眠牧師です。
アンデレ教会と、契約をしたのは、もちろん、宗派が違うからです。

ST ANDREW アンデレ教会は、もちろん、スコットランドの、国教会とは違います。イギリス国教会の下の教会です。
その辺の事情は、教育を受けましたが、忘れました。
共産党の先生が、アンデレ教会の洗礼も、受けて、或る試験にパスして、特殊な資格を取った僕を、必死に、教会から離そうとしたのです。
その資格は、3歳の時、一度取って、17歳の時に、もう一度、取りました。それなのに、まるで普段は、劣等生の馬鹿だったので、
僕の資格を横取りするのが、その先生の、目的だったのです。また、牧師に戻したくもなかったそうです。

大阪の天王寺に、小さな教会が、ST .ANDREW'S HIGH SCHOOLの横にあります。
ST.ANDREW'S HIGHSCHOOLには、アメリカに姉妹校があり、交換留学生がいました。


アンデレ教会は、日本では、日本聖公会に属する、教会です。プロテスタントとカトリックの仲介役をするのが、日本聖公会です。
今は、クリスチャンと言っても、何処の教会に属しているわけでもありませんし、高校のアンデレ教会も、大人になって、出入りする、教会ではありません。
そのへんの事情は、放っといて下さい。僕は、イエスキリストの、十字架の前には、簡単に、跪きます。神の下僕として。


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宗派


今は、休眠牧師で、もう牧師に戻ることはないのですが、

僕は、三歳の時、ラテン語とパイプオルガンを、ドイツ人の宣教師から学び、
ドイツプロテスタントの牧師の免許を取り、
アニメの原作で儲けたお金で、実家の山の中の、敷地に、
美しいステンドグラスのある、教会を建てましたが、
子供の牧師の言う事なんか、聴く、シスターもおらず、
勝手に、シスターが、教会で、農夫と戯れていたので、
同じ名字の牧師さんの居る街に、教会を移転させました。
たった三ヶ月間だけでした。


大阪のST.ANDREW'S BOY'S HIGHSCHOOLに、入学した時、
ST.ANDREWとは、十二使徒の独りでスコットランドで、十字架に架けられた人で、イギリス国教会に属する、スコットランドの教会です。
僕は、16歳の時、ST.ANDREW教会と、契約を、結び、その契約は、一生続きます。


ST ANDREW教会の牧師さんは、もう一度、牧師をやるつもりがないなら、普通の男性になりなさい、と、言ってくれますが、
簡単に、子供の頃牧師だった、僕が、普通の男性になれるわけもなく、共産党の教育を受けても、神を否定するつもりもなく、創価学会の人達からは、目の敵にされるし、


そういえば、アメリカには、クリーデンスクリアウォーター教会という、反戦教会がありますよ。
南北戦争の時から、続いている、歴史のある、宗派で、
クリーデンスクリアウォーターリヴァイヴァルCCRという、クリーデンス派の牧師の、ロックバンドも1960年代後半に活躍していました。


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アメリカの反戦平和主義


アメリカにも、反戦平和主義者等は、たくさんいます。
僕が、子供の頃から、聴いて育った、アメリカのロックミュージシャン達は、
皆、反戦平和主義者等です。


アメリカの戦争は、武器商人によるものです。
レーガン時代のレーガノミックスは、慢性的な恐慌状態を、避ける為に、
武器経済をやりました。

アメリカの資本主義には、悪い所がたくさんありますが、
僕は、日本の、田舎の、封建主義には、
耐えられません。

アメリカ型の近代民主主義社会が理想です。


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デモクラシー

僕は、クリスチャンなので、無神論の立場は取りません。
またアメリカ型の資本主義も否定しません。
資本主義と民主主義は、切っても切り離せないものです。
僕は、デモクラシーは否定しません。
僕が、住んでいる明日香村、奈良県の中南部から、南部は、未だ、近代以前の封建的な、場所柄で、まるで、土民の酋長みたいな人達が、町村議会をやっています。
その人等は、アメリカも、キリスト教も、アカ呼ばわりします。
英語が使える人が、教師以外の人等だったら、精神病院にぶち込もうとします。
僕の理想的な人達は、サンシモンやプルードンと言った、キリスト教社会主義を作ろうとした、空想的社会主義者らです。
もちろん、理論的には、彼等は、未熟だったと思います。
でも、それが、僕の理想です。


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HEGEL PHANOMENOLOGIE DES GEISTES VI A c

HEGEL PHANOMENOLOGIE DES GEISTES VI A c


VI Der Geist

A Der wahre Geist,die sittlichkeit

c Rechtszustand


VI 精神

A 真実な精神 人倫

c 法的状態

一、人倫から人格への移行
二、ストア主義及びスケプシス主義への対応 法的人格の形式性
三、世界の主人とその臣民 不幸な意識への対応



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カント「純粋理性批判」を読む Part20

カント「純粋理性批判」2.先験的方法論  第一章 第四節

第一章
第四節 証明に関する純粋理性の訓練

     「先験的綜合命題の証明は、先天的綜合認識の、すべての証明のうち、特殊な性質を有するもので、それにおいては、理性は、かれの、概念によって、直接に、対象と
      交渉するをえず、」
     「かえって、まず、概念の客観的妥当性および、その先天的綜合の可能性を、明らかにせねば、ならぬ。」
      


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感性 悟性 理性

もちろん、カントの認識論は、感性 悟性 理性がセットになっていて、理性の統合によって、始めて、客体を捉えることができます。
でも、悟性は経験的で、悟性だけでも、数学程度の科学は成り立つんです。理性は、演繹的、先天的、に客体を捉えます。
例えば、感性は、時間と空間で、音楽を聴いたり、絵画を観たりする程度のものです。実際、音楽を作曲したり、絵画を描こうと、したら、当然、悟性と、理性の、実践が必要でしょう。また、理性には、時間がないので、歳を取った老教授とは、感性では、解り合えなくても、理性で解り合える場合もあります。
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悟性と科学

結局、カントは、悟性的認識の段階で、自然科学は、成立する、と言ってるんですよ。
ぶっちゃけて言えば、悟性的認識とは、算盤勘定のようなもので、経理の会計ソフトを扱っているようなものなんです。
そんな、段階で、神の存在証明なんて、できますか?
カントは、理性によって、神の存在証明をしているんです。


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HEGEL PHANOMENOLOGIE DES GEISTES VI A b

HEGEL PHANOMENOLOGIE DES GEISTES VI A b


VI Der Geist

A Der wahre Geist,die sittlichkeit

b Die sittliche Handlung, das menschliche und gottliche Wissen. die schuld und das Schicksal


VI 精神


b 人倫的行動 人間の知と神々の知 罪責と運命

一、人倫的行動 人倫的意識と人倫的自己意識
二、人間の知と神々の知
三、罪責と運命 承認の成否
四、像による解明 若者と女性 人倫の美しさと自然性


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カント「純粋理性批判」を読む Part19

カント「純粋理性批判」2.先験的方法論  第一章 第三節


第一章
第三節 仮説に関する純粋理性の訓練


    「しかる場合に、その私見を、仮説という。」

    「経験の範囲における、体系的悟性使用の統制的原理を、設定せんとするにある。」

    「理性を、空想と幻惑とのうちに、溺らしてしまわぬように、細心の注意がはらわれねばならぬ。」


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HEGEL PHANOMENOLOGIE DES GEISTES VI A a

HEGEL PHANOMENOLOGIE DES GEISTES VI A a


VI Der Geist

A Der wahre Geist,die sittlichkeit

a Die sittliche Welt, das menshliche und gottliche Wissen, Mann und das Weib


VI 精神

一 精神の生成 その一 直前の形態との関係
二 その二 すべての先行形態との関係
三 精神の諸形態

A 真実な精神 人倫

a 人倫的世界 人間のおきてと神々のおきて 男性と女性

一 人倫的世界の契機としての人間のおきてと神々のおきて 
 α 人間のおきて
 β 神々のおきて とくに埋葬の義務

二 二つのおきての諸段階と二つのおきてを実施するもの
 α 統治における拡散
 β 家族におけるもろもろの間柄 特に兄(弟)と(姉)妹との間柄
 γ 二つのおきてを実施するもの 男性と女性 新しい意味づけ

三 二つのおきての相互移行 その媒語


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カント「純粋理性批判」を読む Part18

カント「純粋理性批判」2.先験的方法論  第一章 第二節

第一章
第二節 抗争的使用に関する純粋理性の訓練


    「私が、純粋理性の、抗争的使用、と、呼ぶものは、純粋理性の諸命題を、それぞれの、独断論的否定に対して、防禦することなのである。」

    「経験的使用の職能のみを、有する、悟性法則を、使用せねばならぬゆえに」

    「純粋理性批判は、純粋理性の、あらゆる紛争に対する、真の、裁判所と、認められることができ る。」

    「純粋理性の領域には、真の、抗争なるものは、存しない。」


自己矛盾を起こした純粋理性の懐疑的満足の不可能性について

    「すべての概念は、否、すべての問題でさえも、純粋理性が、われわれに、提示するものは、決して、   経験においてでは、なくして、それ自身、ふたたび、理性において、
     存するもので」


    「われわれは、これを、純粋悟性によって」 
    「あるいは、純粋理性によって、試みる」
    「少なくとも、経験の客体たりうるものに、関しては、前者により、決して、経験に現れあたわざる物 の性質、しかのみならず、そういう対象の現存在に関しては、後者によるのである。」

    「懐疑論者は、独断的思弁家を、悟性および、理性自身の、健全な、批判へ、導く、厳格な教師であ る。」


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PHANOMENOLOGIE DES GEISTES /HEGEL V C b c

PHANOMENOLOGIE DES GEISTES /HEGEL V C b c


C Die Individualitat.welche such an und fur sich selbst reell ist


V C b Die gesetzgebende Vernunfft

c Gesetzpruffende Vernunfft

V C 即自且つ対自的に実在的であることを自覚している個体性

b 立法的理性

   c 査法的理性

(立法と査法)


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悟性と理性の違い/カント

感性は、空間と時間で、悟性は範疇、理性はそれを統合します。
感性、悟性、理性の統合で、客観的な客体は、捉えられるんですから、それによって、自然科学は成り立つんじゃないでしょうか。

ただ、神の存在証明については、別です。
悟性は、範疇なのですから、理性で捉えられても、悟性では、神の存在証明は、成り立ちません。

これは、自然科学と宗教を、分ち、純粋に、自然科学を、成り立たせしめるためではないでしょうか?
悟性的認識と、理性的認識の違いを、カントは、強調しています。
そのための、先験的原理論だったと、思います。

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カント「純粋理性批判」を読む Part17

カント「純粋理性批判」2.先験的方法論 緒言 第一章 第一節

2.先験的方法論

緒言
    「われわれは、先験的原理論において、この建築物の、建築材料を、概算し、これをもってして、いかなる建築物を、建築しうるか」
    「詳しくいえば、どれだけの高さの、どれだけの、堅固さのものを、建築しうるかを、決定した」

    「今や、われわれの問題は、材料よりは、むしろ、設計である」

    「私が先験的方法論というのは、純粋理性の一個の、完全なる、体系の、形式的制約の、限定なのである。」

第一章 純粋理性の訓練

    「いずれかの規則に、背反せんとする、不断の傾向を、制限し、ついには、これを、絶滅するところの、強制を、訓練という。」

    「私は、先験的批判の、第二部門においては」

    「純粋理性の訓練を、純粋理性による、認識の内容にではなくして、単に、その方法へ、向ける」

    「前者は、すでに原理論においてなされた」


第一節 独断的使用における純粋理性の訓練

    「哲学的認識は、概念による、理性認識である」
    「数学的認識は、概念の構成による、理性認識である」

    「哲学的認識は、特殊を、普遍においてのみ考察し」
    「数学的認識は、普遍を、特殊において」
    「否しかのみならず、個体において、考察する」

    「数学は、単に、量を対象とし」
    「哲学は、単に、質を対象とする」

    「この対象を、理性によって、処理する手段が」
    「哲学的考察におけると、数学的考察におけるとでは、まったく相違している」
    「前者は、一般的概念のみを頼る」
    「後者は、単なる概念を、もってしては、なんらの成果も収めえない」

    「すべての直感のうち、先天的に、与えられているものは、現象の単なる形式たる、空間時間のみである。」

    「一は、その質とともに(その形体によって)現され」
    「他は、その単なる量(同種的多様の単なる綜合)が、数によって、現されるのである。」

    「三角形という、数学的概念に関しては、私は、これを、構成する」
    「換言すれば、先天的に、直感において、与える」  
    「そして、綜合的にして、理性的なる認識を得るであろう。」

    「先験的命題は、単なる、概念に、準拠せる、綜合的理性認識である」
    「したがって、比量的である」
    「なぜなら、経験的認識の、あらゆる綜合的統一が、それによって、可能的となるが」
    「いかなる直感も、先天的に、与えられぬからである」

    一 定義について

    「いわゆる定義は、語の限定にほかならぬからである」

    「したがって、数学のみが、定義を有する。」

    「哲学においては、数学を、模倣して、定義から、出発してはならぬ」
    「哲学は、所与概念の分析であるから」

    「概念は、定義によって、はじめて与えられるのである」
    「数学は、定義から、出発せねばばらぬ、また出発することができる」

    「数学的定義は、過誤を犯すことは、ありえない」
    「その概念は、定義によって、はじめて与えられるのであるから」
    「概念は、定義が、概念によって、思惟した、と主張するものだけを、含むからである。」

    二 公理について

    「先天的綜合命題が、直接に確実である場合にかぎり、これを、公理という」


    「哲学は、単に、概念による、理性認識であるから、哲学においては、公理の名に値する、いかなる原則も、存しあたわぬであろう。」
    「これに反して、数学は、公理を、有しうる」

    三 明示的論証について

    「必当然的証明が、直感的なる場合にかぎり、明示的論証と、いわれうる」

    「数学のみが、明示的論証を、含む」

    「概念に対応して、先天的に、与えられあたう直感から、その認識を導出するからである。」


    


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カントの認識論


カントの認識論には、段階があります。
まず、時間と空間の感性界。次に範疇による、悟性。そして、それを統合する、理性です。
カントは、神の存在証明を、一端、論証しても、それは、悟性の範疇では、理解できない、と、説きます。

「物自体」は人間には、解らない、という、不可知論は、近代科学哲学を、作って行く、ために、人間の認識には、限界がある、と、説く必要が、あったのではないでしょうか?

おもしろいのは、近代哲学の祖と、言われている、デカルトの「方法序説」で「神の存在証明」を行っている事です。「神が存在しているから、人間の認識には、明証性がある」

「だから、人間の認識は、正しい」という、論証を行っています、それ故の、「コギト エルゴ スム」なのです。

カントの認識論は、結局これは、人間の主観に過ぎない、という、もので、人間の捉える、客体は、物自体では、ない、というものです。

ヘーゲルが、それを、弁証法によって、客体に近づこうとしたのも、カントの、認識論による、物自体は、解らない、という、不可知論には、満足できなかったのでしょうね。


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