Aska Temple

All about John Ubel and Aska Temple

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カント「純粋理性批判」を読む Part3

カント「純粋理性批判」1.先験的原理論 第二部 先験的論理学 第一門 先験的分析論 第二篇 原則の分析論(判断力の先験的理説) 緒言 第一章 第二章

 第二篇 原則の分析論(判断力の先験的理説)

     「一般論理学は、上位の認識能力ー悟性と、判断力、と、理性とーの区分と、まったく合致する、構図の上に、築かれている。」
  諸言 先験的判断力一般について
     「悟性一般が、規則の、能力として、説明せられるならば、、判断力は、規則の、下に、包摂する、能力」
  第一章 純粋悟性概念の図式性について
  第二章 純粋悟性のあらゆる原則の体型
     第一節 あらゆる分析的判断の最高原則について
     第二節 あらゆる綜合的判断の最高原則について
      「あらゆる、綜合的判断の最高原理はこれであるーすべての対象は、可能的経験における、直感の、多様の、綜合的統一の、必然的制約に、従属すると」
     第三節 純粋悟性のあらゆる綜合的原則の体系的表現
      1、直感の公理
      2、知覚の予料
      「知覚は、経験的意識である」
      3、経験の類推
      「経験とは、経験的認識である、すなわち、知覚に、よって、客観を、限定するところの、認識である。」
      「ゆえに、経験は、知覚の綜合である。」
      「経験は、知覚の、必然的結合の表象によってのみ、可能的である。」
        甲、第一の類推 実体持続性の原則
           「いっさいの現象は、時間において、存在する」
        乙、第二の類推 因果律に従える継起の原則
           「現象のいっさいの変易(継起)は、単に、変化である」
           「物自体そのものが、(それによってわれわれを、触発するところの表象と、無関係に)いかようであるかということは、まったく、われわれの、認識の
            範囲外にあるのである。」
           「われわれは、時間の関連における、この連続性を、現象においてのみ、経験的に認識しうる」
           「あらゆる、経験と、その可能性、とに対しては、悟性が必要である。」
           「時間が、存在するものより、継起するものへの、連続的進展の、可能性の、先天的感性的制約を、含むと、同様に、」
           「悟性は、統覚の統一性によって、この時間中の、現象に対する、すべての、位置を、連続的に、限定することの可能性の、先天的制約である。
        丙、第三の類推 交互作用あるいは相互性の法則に従える共在の原則
      4、経験的思惟一般の公準

        1、経験の形式的制約(直感および、概念に関する)と、一致するものは、可能的である。
        2、経験の質料的制約(直感)と関連するものは、現実的である。
        3、現実的なるものとの、関連が、一般的制約に、従って、限定されおるものは、必然的(に実存在する)である
        観念論論駁
            「私自身の、現存在の単なる、しかし、経験的に、限定されたる、意識は、私の外なる空間中の、諸対象の、現存在を証明する。」
      原則の体系に対する一般的註
            「われわれは、この原則を、可能的経験の客観についてのみ、証明することができたのである。」

     「純粋悟性のあらゆる原則は、経験の可能性の先天的原理に他ならぬ」
     「そして、あらゆる、先天的綜合的命題は、また経験にのみ、関係する。」


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売春婦としての、ソーシャルワーカー

売春婦としての、ソーシャルワーカー

 「援助交際」という、言葉は、そもそも、ソーシャルワーカーが、ケースワークする、当事者との、交渉にあたって、使う言葉である。ソーシャルワーカーは、自分が、美人だと、思っていて、少しでも、障害者や、痴呆老人を、活気づけるため、堂々と、色仕掛けで、当事者と、接する。自分が、アイドルみたいに、扱われるのを、楽しんでるのである。
 私が、最期に援助交際した、保健婦は、片方は、色仕掛けで、片方は、本気で、俺を、病院に、ぶち込もうとした。ソーシャルワーカーは、売春婦と売春夫の、集まりなのだ。
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カント「純粋理性批判」を読む Part2

カント「純粋理性批判」緒言

1、純粋認識と経験認識との、区別について
2、われわれは、ある種の、先天的認識を有ずる、普通の悟性といえども、決してそれを、欠いていない
3、哲学は、あらゆる先天的認識の可能性、原理、および範囲を定むる、一個の学を要す
4、分析的判断と、綜合的判断との、区別について
5、理性のあらゆる理論学には、先天的綜合的判断が、原理として、含まれる
6、純粋理性の、一般的課題
7、純粋理性批判、という名をもつ、特殊な学問の、観念と、区分

カント「純粋理性批判」1先験的原理論 第1部 先験的感性論 緒言 第一節 空間について

緒言

 「この攻究において、感性的直感の二つの純粋形式である、ところの、空間と時間とが、先天的認識の原理として、存することが、明らかにせられるであろう。われわれは、今や、空間と時間との、考量に、従事するであろう。」

第一節 空間について

空間概念の形而上学究明

空間概念の先験的究明

右の概念からの帰結

 「空間の現すところは、いかなる物自体の性質でもない。」
 「空間は、単に、外官の、いっさいの、現象の形式にほかならぬ。」
 「すなわち、感性の主観的制約である。」
 「それゆえに、われわれは、人間の立場からのみ、空間、延長物等々、について、言いうるのである。」
 「もしも、形態、ならびに、関係の概念は成立すべきならば、物がわれわれに、とって、外的対象であることは、空間に、よってのみ、可能的なのである。」

カント「純粋理性批判」1.先験的原理論 第一部 先験的感性論 第二節 時間について

時間概念の形而上的究明

時間概念の先験的究明

これらの概念からの帰結

 「時間は、独立に存在する、であろう、ところの、ものでは、ない。」
 「時間は、現象に、関して、のみ、客観的妥当性を、有する。」

解明
 
先験的感性論に対する一般的註

 「われわれの、あらゆる、直感は、現象の表象に、他ならぬ。」
 「われわれの、認識能力の、この可能性を、感性という。」
 「表象として、思惟一般の、あらゆる、はたらきに、先行できるものは、直感である。」
 「いかにして、先天的綜合的判断は、可能で、あるか、ー先天的純粋直感、すなわち、空間時間が、それである。」

カント「純粋理性批判」 1.先験的原理論 第二部 先験的論理学 緒言 先験的論理学の概念

1.論理学一般について

 「われわれの認識は、心性の、二つの源泉から、発現する、その第一は、表象を受け取る、能力(印象の感受性)、その第二は、この、表象によって、対象を、認識する、能力(概念の自発性)である。」
 「感性的直感の対象を、思惟する、能力は、悟性である。」

2,先験的論理学について

 「一般論理学は、認識の、あらゆる、内容、言いかえれば、認識の客観に対する、あらゆる、関係を、捨象し、単に、認識相互の関係における、論理的形式、すなわち思惟の、形式一般を考察する。」

3.一般論理学の区分

4.先験的論理学の区分ー先験的分析論と、先験的弁証論と

 「われわれは、先験的論理学において、悟性を、孤立せしめ(右に、先験的感性論において、感性を、孤立せしめたように)。そして、まったく、悟性のみに、その根源を、有するところの、思惟の部門を、われわれに認識から、取り出すのである。」

カント「純粋理性批判」1.先験的原理論 第二部 先験的論理学 第一門 先験的分析論 第一篇 概念の分析論 第1章 第一節〜第三節


第一門 先験的分析論

 「この分析は、われわれの、先天的認識全体を、純粋悟性認識の、要素に分解するものである。」

 「純粋悟性は、あらゆる、経験的な、ものから、のみならず、感性からさえも(すなわち、感性の、純粋形式、空間時間からも)分離せられる。」

 
第一篇 概念の分析論

 第一章 すべての、純粋悟性概念を、発見する手引について

   第一節 悟性の論理学使用一般について
   第二節 判断における、悟性の、論理的機能について
   第三節 純粋悟性概念、すなわち、範疇に、ついて

     「綜合一般は、まったく、構想力の所作である。」
     「この、綜合を、概念たらしめる、ことは、悟性に、属する、機能である。」
     「一般的に、表象せられたる、純粋綜合は、純粋悟性概念を、あたえる。」

カント「純粋理性批判」1.先験的原理論 第二部先験的論理学 第一門 先験的分析論 第一篇 概念の分析論 第二章 第一節〜第二節

第一篇 概念の分析論

 第二章 純粋悟性概念の演繹について
   第一節 先験的演繹一般の原理について
   範疇の先験的演繹への移りゆき
   第二節 純粋悟性概念の先験的演繹

     結合一般の可能性について
     統覚の根源的綜合的統一について
     統覚の綜合的統一の原則は、すべての、悟性的使用の、最高原理である
    
      「悟性とは、認識の能力である。」
      「認識とは、所与表象の客観に対する、一定の、関係である。」
      「客観とは、その概念において、所与直感の多様が、結合されている、ところの、ものである。」

     自覚の客観的統一ということ
     すべての判断の論理的形式は、判断において、含まれる、概念の統覚の、客観的統一において、成立する
     すべての感性的直感は、それのもとに、おいてのみ、直感の多様が、一つの意識に、統括されうる、制約としての、範疇のもとに、属する
     範疇は、経験の対象へ適用される以外に、物を、認識するために、使用されることは、できぬ
     感能の、対象一般に対する、範疇の、適用について
     純粋悟性概念の経験における、普遍的可能的使用の、先験的演繹
 
      「われわれの感能にあらわれうる、対象は、範疇によって、先天的にー認識されること」

     悟性概念の、この、演繹の成果

      「われわれは、範疇によらずしては、いかなる、対象をも、思惟することは、できぬ。」

     

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或るNPO法人の死

或るNPO法人の死

 あれは、もう9年前になる。母が死んだ後、弟の嫁が、
 「お兄さんおかしい。」
と、騒ぎ出して、保健所に連れて行かれた。そこで、紹介されたのが、サロン型、作業所だった。運営は、精神障害者当事者だけで、行っていたが、いわば、暴力団事務所みたいな、雰囲気の、元、暴力団組員が、リーダーだった。保健所の職員は、いわば、大親分だった。
 私は、英語や、ギター教室を、開かせてもらい、その施設を、NPO法人にした。クリーン化に、一時成功したのである。しかし、僕が、休んでいる間に、文字も書けない、企業の、ボンボンに、乗っ取られてしまった。業務報告書は、みな英語で書いた。ソーシャルワーカーは、守秘義務を、守らないからだ。或る程度の、信頼関係は、行政との間にあったが、福祉予算カットで、もはや、限界だった。
 私が、その施設の職員を、辞めた後、横領事件が起きて、逮捕者がでた。出世していた、元、保健所職員も、責任を取らされた。
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アリストテレス「形而上学」を読む Part3

アリストテレス 「形而上学」第12巻 第4章〜第10章

 「すべての、ものの、うちで、第一のものとして、すべての、ものを、動かす、ものがある。」
 「或る事物は、離れ、存するものであり、他の或る事物は、離れては、存しないものであり、そして、実体は、前者である。」
 「実体なしには、様態も、運動も存しないからである。」

 「三種類の実体があった。そして、そのうちの、二つは、自然的な実体であり、他の一つは、不動な実体であった。」

アリストテレス「形而上学」第13巻 第1章〜第10章

第一章

 「果たして、感覚的諸実体より、ほかに、なにか、或る、不動な、そして、永遠的な、諸実体が、存在するや否か、もし、存在すると、すれば、それは、何であるか、」
 「数学的諸対象ーたとえば、数とか、線とか、その他、これに、類するものーを或る、人々は、実体であると、主張している、が、しかし、また、諸々のイデアが、実体である、と、している、人々もある。」
 
第四章
 「もし、エイドスが、与られるものであるなら、必然に、ただ、実体のイデアが、存在するだけだ、ということになる。」
 「ものの、実体(本質)に、含まれている、すべての、構成部分は、いずれも、それぞれ、イデアなのだから(そして、イデアは、『存在するところの』ものなのだから、」

アリストテレス「形而上学」第14巻 第1章〜第6章


 「実体に対しては、いかなる、反対のものも、存しない。」



 さて、アリストテレス「形而上学」上下巻全体を、読んで来たわけである。アリストテレスは、様々な、詭弁を、ギリシア思想から、完全に、全く、排除し、「実体」を、キーワードとする、「形而上学」を、建築した。
 この、アリストテレスの偉業は、後々の、哲学史に、大きな、金字塔を、作り上げ、未だ、確固たる建築物である。




                                        fin


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日本共産党と、近代日本社会

日本共産党と、近代日本社会

 カントが、「啓蒙とは何か」という、著作で、示しているとおり、近代哲学のない、封建的な社会は、何がしかの、啓蒙によって、近代化せねばならないのであって、
例え、その方法に、批判が、出ようとも、迷信や、土俗宗教に、値する、封建的な社会からは、近代社会は、脱却しなければ、ならない。そのために、必要なのは、「科学」である。
 日本共産党は、昭和30年代に、他の、革命論を、唱える、諸派と、分裂し、あくまで、議会制民主主義に、乗っ取った、活動を、展開する。その、努力は、日本中の、地方議会に、日本共産党議員が、議席を、得、議会制民主主義を、守る為に、日夜、努力している。
 被差別部落問題、労働者階級の労働条件の、向上。あらゆる、障害者に、向けられる、偏見、に、対し、協力的であったのは、日本共産党員だった。また、共産党員以外の、市役所員も、地方の行政が、まるで、土民の酋長村落のような、状態から、市民社会に、脱却しようと、必死だった。
 私は、精神障害者の当事者会を、NPO法人にし、市役所の行政は、本気だと、つくづく感じた。残念ながら、その、NPO法人は、今は無いが、我々の、行政との、チームワークは、一時的にあったにせよ、無駄ではなかった、と、思う。


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日本共産党の有用性

日本共産党の有用性


 日本共産党には、様々な批判がある。特に、同じ左派同士で、共産党を批判する人が、多い。私も、民青の内ゲバに、遭った、被害者の一人だが、地方における、日本共産党の在り方には、どちらかというと、肯定的ですら、ある。それは、実際、地元の、日本共産党支部に、半年間、お世話に、なったこともあるが、自分でも、よく、農業ヴォランティアを、頑張った、ものだと、思う。
 とにかく、日本の地方の、町村議会は、まるで、土民の酋長みたいな者の、集まりで、共産党議員が、いなければ、議会制民主主義自体、成り立たない、おそまつな、前近代的な、封建的政治なのである。
 共産党には、私なりに、率直な、意見を、言った。別に、内ゲバになんか、大人になったら、遭わなかった。議員にならないか?と、まで、勧められた。亡き父が、反対しなければ、なっていたかもしれない。


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カント「純粋理性批判」を読む Part1

カント「純粋理性批判」純粋理性批判ー成立の事情および第一版第二版論

 「物の認識、すなわち、われわれの表象と客観、概念と対象、との合致の根拠に関する問題」
 「第一版によれば、物体、あるいは、物質は、われわれの表象によってのみ、あるものであって、表象を離れては、無である。」
 「すなわち、超越的客観は、現象の根底に、存するものであるけれども、われわれには、不可認識なる、物自体であって、経験的客観は、先験的主観の立場に立てば、現象であるけれども、経験的主観からみれば、その表象ではない。」
 「私は、物自体(超験的客観)と現象(経験的客観)と、個人的表象、との区別を認める。」
 「外物が、われわれの外に、独立なる、存在を、保つものであると力説している。」 
 「外物は、表象から、独立せる、ものである、」
 「カントは、外物が、個人的主観の表象から、独立で、後者は、前者に依存することを、説いた。」
 「私が、いっさいの現象の、先験的観念論というのは、それに従えば、われわれが、現象を、すべて、単なる、表象(先験的主観の立場からいって)と看做して、物自体と看做さざる教説である。」 
 「この、持続的なるものの、知覚(経験的主観における)が、可能となるのは、私(経験的)の、外なる物によるので、あって、その単なる表象(経験的主観の)によるのではない。」
 「外物を、物自体と同一視したのではなくして、ただ、個人的主観から、独立である、と、解せられねば、ならぬ。」
 「世界は、先験的主観に対しては、物自体では、なくして、現象である。そして、物自体は、われわれの主観形式が、これに、妥当しないために、認識の対象と、なりえざるもので、ある相においては、空間中に現れざるものである。」
 「カントが、一方においては、客観的知識の可能性を基礎づけ、他方においては、、かれの思想の、基調をなせる、実在論的要求を、満足せしめんと、したのである。」
 「カントにとっては、外界が経験的にいって、実在的なることは、自明であって、」
 「かれの説は、先験的見地に立てる、観念論であって、経験的見地よりすれば、実在論である。」
 「現象は、単なる、表象であって、物自体そのものとは、看做されぬ、したがって、空間時間は、われわれの直感の単なる、完成的形式で、独立に与えられた、限定、すなわち、
物自体そのものとしての、客観の限定ではない。」
 「それが、存在せぬ、というのではなくして、われわれには、不可認識である。」
 「直感は、感性的であるがゆえに、その対象は現象だからである。」
 「空間時間は、先験的主観の形式である。
 「先験的観念論は、同時に、経験的実在論なることを力説して、」
 「先天的表象の客観的妥当性に関する、批判的問題である。」

カント「純粋理性批判」第一版序言


 カントが、純粋理性批判で、やろうとした事は、形而上学の、再構築である。

カント「純粋理性批判」第二版序言

 カントが、純粋理性批判 第二版を刊行した、当時、彼は、既に、64歳であった。


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アリストテレス「形而上学」を読む Part2

アリストテレス「形而上学」第10巻 第1章〜第3章

 「一と多」


 般若心経では、「色即是空 空即是色」と、説かれる。「物質は精神であり、精神は物質である。」という、意味である。西田幾多郎は、その、精神と、物質の円環関係の中心に、「絶対無」を、置いた。
 同じく、エルンストブロッホは、初期マルクスの形而上学に、唯心論と、唯物論の円環関係、精神と物質の円環関係と、記されてあるのに、着目し、その円環関係の中心に、SEINを、置いた。

アリストテレス「形而上学」第10巻 第4章〜第10章

 「反対性」


思想としてのDEEP PURPLE

 音楽が、何がしかの、文学的、哲学的、アプローチを聴くものに、行う事がある。ワーグナーは、そうだったし、「ツァラストラ」の音楽化もそうだった。ハードロックという、
如何にも、東西冷戦中、西側の音楽の象徴であった、ジャンルもまた、何らかの思想性を持っている。LED ZEPPELINの解散後、発表された、未発表音源集のタイトルは。「How the West Won」だった。エルンストブロッホは、旧ソ連や、旧社会主義国は、本来の意味での、社会主義ではない。本当の社会主義は、「未だ存在していない Noch-Nicht -Sein」と、説く。DEEP PURPLEやLED ZEPPELINのような、如何にも、西側の音楽のような、爛熟した、資本主義の、後に、本当の社会主義は、実現するのである。
 DEEP PURPLEは、クラシックとロック音楽を融合する、アルバムを発表後、ハードロックバンドに変貌する。当時の、ヴォーカルは、ミュージカル「ジーザスクライストスーパースター」で、クライスト役を務めた、イアンギランである。DEEP PURPLEのハードロックは、バロックやアラブ音階を、物凄い速さで、キーボードのジョンロードと、ギタリストのリッチーブラックモアが、ユニゾンで、演奏しまくる。或る意味、暴力的な、音楽である。日本公演LIVEより、シングルカットされた、「BLACK NIGHT」での、暴力的で、破壊的な演奏の、後、イアンギランが、観客に向かって、「GOD bless you!」と、叫ぶ。完璧なキリスト教の布教活動である。
 私は、13歳の時、DEEP PURPLEを大音量で、聴き、エレキギターで、DEEP PURPLEの曲を弾ける様になった時、仏壇に飾ってあった、昭和天皇の肖像写真を、庭に投げ飛ばした。DEEP PURPLEの音楽には、何がしかの、思想があり、それが、子供の頃の僕を、そうさせたんだと、思う。

アリストテレス「形而上学」第11巻 第1章〜第3章

「多くの類を異にする、諸存在について、どうして或る、ただ一つの学が、ありうるか?」


 私が、立命館大学夜間部に、通っていた時、或る日、共産党員の、女の子から、いきなり、
 「私、卒論で、レーニンの、唯物論と経験批判論、やんねん。現代のマッハ主義、けちょんけちょんに、けなしたいねん。あんた、フィリッチョカプラの『タオ自然学』持ってんねやろ?貸してよ!」と、絡まれた。俺は、
 「嫌や。お前、どうせ、俺の大事な本に、滅茶苦茶な、書き込み、すんねやろっ?大事な本、そんなんされたら、たまったもんじゃない。今でも、気の利いた本屋やったら、『タオ自然学』くらい、置いてるやろ?自分で買えよ。言うとくけど、マッハ主義を批判するためには、マッハ主義を理解せんなんあかんねで。お前に、アインシュタインが理解できるとは、思わんけどなあ。」
と、断った。

アリストテレス「形而上学」第11巻 第4章〜第12章


 「ヘラクレイトスと、アナクサゴラスの批判」

 ガザーリー著「哲学者の意図」は、西欧哲学を批判するために、「哲学者の自滅」の、準備として、まず、西欧形而上学を、理解するための、著書である。目次を観る限り、西欧形而上学のエッセンスを、うまく、整理整頓されてある。
 イスラム教では、モーゼもイエスキリストも、預言者の一人である、と、認める。ムハメッドが、最期の預言者なのである。このように、イスラーム世界は、他の文化に対し、寛容である。(放送大学「イスラーム世界」講義 後藤あきら より)
 何物かを、批判するためには、それを、理解しなくては、ならない。なんの理解もしていないのに、そのものを批判するのは、無知蒙昧である、と、ガザーリーは語る。

アリストテレス『形而上学」第12巻 第1章〜第3章


 「この、研究は、実体について、である。けだし、ここで、探し求められている、原理、原因は、実体のそれらだからである。そして、そのわけは、もし、存在する、すべてが、或る、全体的なものであるなら、実体こそは、その第一の存在であって、その次は、性質としての、存在、その次は、量としての存在であろうから。」


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アリストテレス「形而上学」を読む

アリストテレス「形而上学」第1巻〜第3巻

昔、学生時代。社会科学研究会で、エンゲルスの「フォイエルバッハ論」の読書会があり、フォイエルバッハを、唯物論の英雄として、祭り上げ、社会運動思想ではない、と、けなし、だから、哲学はいらない、これからは、経済学だ。という、エンゲルスの暴論のような、薄っぺらいパンフレットなのだが、経済学部の連中は、「だから、哲学なんて要らないんだ」と、ぬかしやがるので、アリストテレスのレジュメを発表し、みんなを混乱させてやった。
 フォエルバッハは医学者であり、だから唯物論の方法を取り、「解体新書」みたいな
本を書いただけであり、フォイエルバッハの思想は、神を否定するものではない。エンゲルスの言っている事は、お門違いもいいとこだ。
 ところで、アリストテレスの「形而上学」を、読み始めた。ギリシア哲学の総括のような本で、第1巻から第3巻を読んだ限り、あらゆる、ギリシア哲学の問題点を、これ一冊で、解決しようとする、野心作なのだ。いままで、ギリシア哲学は、断片的な知識しか、なかったが、この本を、一冊読み終えた頃には、かなり、ギリシア哲学の全体像を、掴む事ができるだろう。良書である。

アリストテレス 「形而上学」第4巻

 まるで、ギリシア哲学全体の総括のような、この本であるが、この第4巻では、「あって、あらぬ」という、詭弁家の在り方を。アリストテレスは、痛烈に批判する。
パルメニデスや、ヘラクレイトスまでもが、アリストテレスの批判の対象である。彼のこの「形而上学」での、ギリシア哲学の総括がなかったら、その後の哲学史は、なかっただろう。

アリストテレス「形而上学」第5巻第1章〜第12章

 私は、立命館大学で、日下部教授という、ギリシア哲学の先生の、講義を受けている。ヨーロッパと日本を、行き来している、大変忙しい教授で、前期だけ受けた。内容は、ギリシア哲学の概要。試験問題は、パルメニデスとヘラクレイトスについて書け、というもので、私はAを取った。
 退学後、カントの純粋理性批判を英書で、17年かけて読み切った。在学時代半分くらいは、読んでいたが、37歳までかかった。ハイデッガーのSEIN UND ZEITも、まだ、ドイツ語で講読中である。あと、もう少しで終わりそうだが、26年かかっている。ヘーゲルの精神現象学に至っては、26年経った今でも、まだ、半分しか、ドイツ語原書講読ができていない。ドイツ語はドイツ語で愉しむのが、いくら時間がかかっても、私の流儀である。哲学や文学なんて、一生やらなきゃ解らないと、思う。
 さて、アリストテレス「形而上学」第5巻。第1章から第12章まで、今日は、読んだ。ギリシア哲学用語の解説集である。今まで読んで来た、カントやハイデッガーの、元ネタが、頻繁に出て来て、読んでいて、愉しい。やはり、近代以降の哲学も、ギリシア哲学の素養がないと、本当の意味での理解はできないな、と、思った。

アリストテレス 第5巻「形而上学」 第13章〜第30章

 同じく、ギリシア哲学の用語解説集である。アリストテレスの仕事は、形而上学という、ある種の建設作業で、揺るぎない、ギリシア哲学を構築しようと、していたように思える。私が、ST. ANDREW'S BOY'S HIGHSCHOOL の3年生の時、進路指導で、哲学科に、行きたい、と、言った時、神戸大学の哲学科で。武市健人氏から、直接教わった、Y教諭は、「俺は、形而上学を否定する。」と、冗談交じりで、言った。「先生がそんな事言ったらだめじゃないですか?」と、呆れたが、そのY教諭は、共産党員で、卒業生を集めた、サークルで、「空想から科学へ」の読書会を毎週していたが、私に「弓場、お前、寅さんの形而上学を考えろ!」と、言われた。その教諭は、もう亡くなられて、20年以上経つが、
私の、解答は、寅さんの形而上学とは、早稲田大学の中核派の愚民化政策だ、という、解答である。
 1980年代後半の、哲学徒の状況は悲惨だった。なんで、まだ、デカルトやカントを勉強している、初級哲学徒が、ドゥルーズガタリのようなものを、読まねばならないのか?ポスト構造主義とは、言っても、構造主義自体、教えてくれる、講師もいない。結局、私は、アルチュセールの「資本論を読む」を読んだ。資本論の誤読を提唱する、彼の、論述は、おもしろかった。バシュラールの影響から、「芸術労働は、1エレのリンネルとは、等価形態に入らない。」という、名言や、「土台が、必ずしも、上部構造を決定するとは、限らない、」という、多重層決定論。これで、マルクス主義の幅は大きく、広がったような気がする。
 その、アルチュセールまで、破壊しようとした、1968年の哲学化として、大ベストセラーになった「アンティオイディプス」とは、何だったのか?ただの、すねかじり経済学ではなかったのか?労働者の娘が、ヴィトンやグッチを手に取る、無茶苦茶な、消費社会を、煽っただけではないのか?マルクス主義が資本に絡めとられてしまった、だけではないのか?
 最近、ポスト構造主義とは、何だったのか、を、優しく解説してくれる、良書に出逢い、あの頃の、何が何だが、さっぱわからん、状態からは、脱しえた。しかし、もう、破壊は、たくさんだ、古典に戻り、もう一度、建築したい、と、思う。

アリストテレス「形而上学」第6巻

 アリストテレスの「形而上学」の目指しているものは、明らかに、神学である。

 さて、再び、構造主義と、ポスト構造主義に付いて、触れる。
相対的剰余価値が、生じたのは、一日12時間にも及ぶ、過酷な、労働時間による、絶対的労働時間、絶対的剰余価値を、減らす目的であった。生活必需品の価格が下がる事で、
相対的剰余価値が生まれ、労働時間は、短縮された。
 構造主義的経済学者、ボードリヤールらは、ブルジョアから、労働者階級にいたるまで、各家庭の、家具や、台所、生活必需品の、徹底比較を行い、膨大なページにおける、比較写真集を発行する。そして、ボードリヤールらは、このような、階層構造は、永遠に変えられない、という、非常に悲観的な、結論に、帰結した。
 しかし、その後に、起こった事は、労働者階級の子息が、ヴィトンやグッチを手に取る、という、転倒だった。相対的剰余価値の否定である。このような、消費行動を、ポスト構造主義者らは、「この消費行動こそ、革命だ。」と、煽動した。労働者のない脛をかじる、脛かじり経済学の誕生である。その結果、まだ、学生の身分でありながら、多重カードローンを、抱え、自己破産し、金融ブラックリストに載ってしまう者が、後を絶たなかった。日本のパルコ文化が、その象徴である。ポスト構造主義者らは、マルクシズムを、資本に、売却したのだ。

アリストテレス「形而上学」第7巻 第1章〜第4章

 アリストテレスによる、「実体」の概略。



 バブル経済とポスト構造主義

 日本のバブル経済は、1987年、世界恐慌が起こりかけた時、世界中の、コンピューターネットワークで、回避された時に、日本の、ブルジョアが、多くの不良債権を抱えた事から、
その、損失を埋めるために、地価や株価をつり上げる事に、より、始まった。この時の、イデオロギーが、ポスト構造主義の、消費文化の肯定であった。日本人は、それまで、貯蓄を美徳と、していたのに、この頃から、無理な、マイカーローン、マイホームローン。ヴィトンにグッチといった、異常な消費文化が生まれた。銀行は、「金を借りて下さい」と、各家庭を訪問し、融資希望額の倍以上の融資額を、融資していた。ソ連がなくなった事により、多くの、有能なマルクス主義哲学者が、自殺した。ポスト構造主義の消費肯定イデオロギーに、歯止めをかけるものは、いなかった。吉本隆明ですら、パルコ文化を肯定した。
 労働者階級は、その時、贅沢を憶えた。借りた金で、贅沢三昧していた。もはや、自分が、労働者階級だとは、思わなかった。月収の10分の1以上のローンを払わねばならないのに、マイホームを買った。バブル経済の弾けた時の、銀行の豹変ぶりも異常だった。今度は「金を返せ」である。当然の如く自己破産者が続出した。
 もはや、労働者階級に、労働者階級という、自覚はない。会社員は、会社の人であり、会社員である事だけで、エリート意識を持っている。会社の同僚も、皆ライヴァルである。自分が出世するか、相手が、リストラされるか。出世のためには、サーヴィス残業を進んで行う。労働時間は、マイカーローンや、マイホームローンを払って行く為に、増えるばかりだ。会社員自らが、率先して、サーヴィス残業をやり、労働時間を増やしている。これは、労働日の退行である。この様な状況下で、何らかの連帯など、作れるのであろうか?もはや、労働者階級という意識は、会社員は持っていないのに。私は、今日の状況で、労働者が連帯し、労働運動を繰り広げる事が出来るか否やについては。多分にニヒリスティックである。
アリストテレス「形而上学」第7巻 第4章〜第7章

 アリストテレスの準備しているものは、明らかに神学である。そして、この「形而上学」は、混乱した、ギリシア哲学の整理である。アリストテレスが最も、排除したいのは詭弁家たちである。
 しかし、パルメニデスやヘラクレイトスを、批判している、と言っても、アリストテレスと、ヘラクレイトスは、違うのだから、さほど、問題ではない。アリストテレスが、この「形而上学」で準備した中世神学では、弁証法は、はっきりと使われている。例えば、三位一体と、イエスキリストの復活や、聖書の言葉、「一粒の麦もし死なずば、一粒の麦にてあらん、死なば、大穂にてならん。」というのは、一粒の麦が、一粒の麦として、死んだら、(存在ー無化)大穂の麦に生成する(無化ー生成)という、立派な弁証法なのであり、
アリストテレスが、ヘラクレイトスを批判したと言っても、後年の中世神学は、ギリシア哲学のあらゆるものを取り入れているのだから。ただ、ギリシアの思想から、詭弁家を、取り除けば、それで、良かったのではないか?

アリストテレス「形而上学」第7巻 第8章〜第10章

 同じく、実体の概略。形相と質料の説明。


 トマスアクィナスやアンセルムス達の、中世神学では、例えば、三位一体を、父なる神ー聖霊ー子なる神の存在—無ー生成という、弁証法を使う。イエスキリストの復活によっても、人間としてのイエスキリストの死(存在ー無化)、神としての復活(無化ー生成)という、弁証法を使う。エルンストブロッホは、主体と客体が円環関係を成し、中心をSEINとすろ、形而上学を、初期マルクスの哲学草稿から、提唱した、西田幾多郎は、主体と客体が、円環的関係を結び、中心は、「無」であると、いう、形而上学を、シェリング、フィフテの研究から、仏教的な見知から、提唱した。
 イスラム神秘思想では、全ての偶像が否定される。中心に行けば行く程、何の存在もない。神の本当の名すら無い。中心は「空」である。(放送大学「イスラム神秘思想」講義より)これは、或る意味、西田哲学の「無」の概念に通ずるものではないか?
 西洋哲学では、デカルトでさえ、神の存在証明を行っている、それゆえ、神の存在故、人間の、認識には、明証性、があり、それ故の、「コギト エルゴ スム」なのである。ぶっちゃけて言えば、イエスキリストの存在がなければ、「1+1=2」すら、成り立たない、というのが、デカルトの近代哲学なのである。

アリストテレス「形而上学」第7巻 第11章〜第13章

 同じく、実体の概略。形相と質料の説明。分割法、基体と本質


 マルクスの「DAS KAPITAL」では、剰余価値論において、三位一体論の論理学が使われている。
Geld-Ware-Geld シュトリッヒの運動において、ΔGが、聖霊として、父なる神(Geld)ー聖霊(ΔG)ー子なる神(Gシュトリッヒ)

このように、マルクスのDAS KAPITALは、様々な論理学を駆使した、哲学書でもあるのです。

アリストテレス「形而上学」第7巻 第14章〜第17章

 
 第7巻は、実体の概略である。あらゆる、問題点を考察し、イデア、形相、質料について、語り、形而上学を、建築していく。その過程で、一切の詭弁を排除して行く。


 マルクスの商品論における、「物象化論」では、1エレのリンネルと、等価形態になる、諸商品から、金が排除され、貨幣が物神化される、有様を描いてある。ドフトエフスキーの、「大審問官」では、イエスキリストが、本当に顕われ、異端審問にかけられる。カミュのシーシュポスの神話では、冥界から、一時的に、地上に帰るのを許された、シーシュポスが、期限を過ぎても、帰らなかった、罰として、山上に、大きな石を運び、運び終わると、また、石は落ち、再び、山上まで、石を運ぶ、永遠運動の刑に処せられる。しかし、カミュは、その不条理こそ、希望だ、と、説く。この、三つの話しには、或る、共通項がある。神はもはや、貨幣であり、よって、イエスキリストが本当に顕われても、異端審問にかけられるしか、ないのである。カミュが反抗し、シーシュポスの永遠運動に、希望を観るのも、その、神は、本当の神ではないからである。神はどっかにいってしまっているのである。マルクスも、ドフトエフスキーも、カミュも、本当に求めているのは、転倒していない、神であり、そこにこそ、シーシュポスの希望があるのだ。

アリストテレス「形而上学」第8巻 第1章〜第3章

 アリストテレスによる、「実体」の説明。



 エルンストブロッホ「希望の原理」第2巻によれば、空想的社会主義者、サンシモンやプルードンは、キリスト教的社会主義を、構想し、実践に、移そうとした、と、述べられている。それは、従来のキリスト教会が、堕落し、金持ちしか、相手しないようになったからだ、と、説かれている。このように、ヨーロッパのコミュニズムは、キリスト教の延長線上に顕われたのであり、キリスト教の信仰の根付いていない、日本で、「神はいない」と、まるで、鬼の首でも取ったかのように、言っている、人々は、ただ、仏教や、新興宗教諸宗派と、同じことを、言っているに、すぎないのである。

アリストテレス「形而上学」第8巻第4章〜第6章

「各々の事物をその可能態から現実態へと動かす者がある。」


 さて、アリストテレスの「形而上学」第1巻から、第8巻までの、上巻を読んで来たわけである。アリストテレスの「形而上学」のキーワードは、「実体」であるのは。解った。しかし、その全貌は、まだ、あきらかにされていない。上巻では、ギリシア哲学用語の説明に、終始している。これは、アリストテレスが、ギリシア思想から、詭弁家を徹底的に、完全に、排除したかったからだと、思う。詭弁家を排除しなくては、アリストテレスの形而上学の、建設は、不可能だったのである。詭弁家は、現代社会でも、多い。世の中、詭弁家だらけだ。しかし、ギリシャ時代に、既に、あらゆる、詭弁を排除し、真理に迫ろうとする、哲学者がいたのだ。それが、アリストテレスである。

アリストテレス「形而上学」第9巻 第1章〜第10章

 「可能態と現実態」


 さて、上巻において、言葉の説明に終始した、アリストテレスは、「形而上学」下巻。第9巻から、本格的に、彼の、形而上学を、展開していく。
可能態と、現実態においての、説明が、9巻のあらましである。もちろん、「実体」との関係においてである。
 エルンストブロッホは、この「可能態と現実態」のテーマを非常に、重要視していた。彼は、ソ連が、まだ、大きな権力を持っていた時代に、「本当の社会主義は、未だ、存在していない。Noch-Nicht-Sein」と、説き、亡命を繰り返した、最期の、本当の哲学者である。
 それでは、旧ソ連や、東欧旧社会主義圏、今の、北朝鮮らが、何故、本当の社会主義ではなかったのか?マルクスの「資本論」によれば、資本主義が爛熟すればするほど、利潤率は傾向低下し、自動的に、社会主義にシフトする、と、いうものであった。爛熟した、資本主義経済の、後に、顕われるのが。本来の、社会主義なのである。



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オウム真理教とバブル経済

オウム真理教とバブル経済

 オウム真理教事件と日本のバブル経済の崩壊は、ほぼ、同時期であった。バブル経済が、破綻した事により、日本経済は、破綻し、多くの自己破産者が出、銀行は多額の不良債権を抱えた。日本中が、経済破綻で狂っていた時期に、オウム真理教という、狂気の集団の事件が起きた。メディアは、日本経済の破綻を隠す為に、オウム真理教事件の報道を、まるで、狂った様に、過熱報道していた。明らかに、日本中が狂っていた。
 私は、精神病院に匿ってもらい、隔離室で、聖書を、英語で読んでいた。そして、ヨハネ黙示録だけは、来るべき時の為に、読まず、退院した。
松本智津夫という、6流の出鱈目な、インド哲学宗教家の事など、本当は、どうでもよかったのだ。メディアは、日本経済の破綻を、隠す為に、わざと、オウム事件の過熱報道を、エスカレートしていった。日本経済は、あの時、もう破綻していたのだ。なんでもいい。とにかく事実を隠すためになら、何の過熱報道でもいい。これが、日本のメディアであるのだ。

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