Aska Temple

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内申書操作について

内申書操作について
          弓場宗治

 1980年代まで、公然と行われていた、公立中学校教師達による、公立高校入試時の、内申書操作だが、現在も、私立進学校に進学する生徒の、抜群な内申書を奪い合う、内申書操作は続いている。
 「15の春を泣かすな」という、お涙頂戴の、標語によって、公然と行われている、内申書操作だが、中一の英文法も解らない生徒を、無理矢理、高校に行かせるために、なんで、苦労して、最高の内申点を取り続けた、優秀な生徒が犠牲にならなければいけないのか???私立進学校の学費は、一般家庭が、普通に払える学費ではない。高校の学費は払えたとしても、それにより、私立大学への進学の道が、経済的問題で断たれてしまうケースも多々ある。
 私事のケースでは、中一の夏休み前の、模擬試験で、だんトツトップの成績を出してしまって、教頭から、
 「お前がどんなに良い成績をとっても、県立一の進学校には行かさない。医者の娘にお前の内申点を全部渡せ!」
と、脅迫された。その教頭は、医者から、娘を県立一の進学校に必ず進学させるよう、賄賂を受け取っていた。
 このような、公立中学校教育の腐敗は、何でも平等という、5流6流のアカ主義から来ている。努力したものが、馬鹿を観る、このような教育が、はたして教育と言えるのか?
 高等教育は、できる者にだけ受けさせるものである。公費を払う価値のある生徒にこそ
公立高等教育を受けさせて当然ではないか?私立進学校に、能力の或る学生を、行かせるべきである、という風潮は、経済的問題を全く考慮に入れていない。それでは、超金持ちの子弟しか、まともな大学教育が、受けられないではないか??
 ぜひ、公立中学校の教師達は、経済的問題も考慮に入れて、実力の或る学生を、それなりの公立進学校に、変な内申書操作なしで、上げるべきである。公費を使って当然な優秀な学生なのだから。
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紫式部の論理学

紫式部の論理学 
        Johann Sebastian Matthew Zdbac Ubel
弓武声慧
 イエスキリストの復活劇は、弁証法そのものであった。イエスの存在が、肉体として無化し、そして、復活し、生成する。その後も多くの聖者らが、架刑にかけられ、弁証法的に、キリスト教は拡大していった。
 ヘーゲルの弁証法論理学は、このようなキリスト教の弁証法の流れにある、天界に届くかの様な、螺旋的に上昇する論理学である。

 さて、紫式部の大著「源氏物語」には、一貫して、或る論理学が用いられている。それは、逆弁証法論理学とでも、呼べるものである。仏教哲学における、マナ識は、マイナスXマイナス=+という、逆弁証法である。源氏物語には、流血の惨事は起こらない。しかし、その逆弁証法のマゾヒズムに耐えられず、遂に死に至る登場人物は、何人も出てくる。

 また、源氏物語では、フッサールやサルトルが提唱した、現象学が、早くも取り入れられている。現象学的還元では、エレベーター式に、俯瞰図から、主体にまで、昇り降りされる。紫式部は、現象学的に、俯瞰図と、登場人物の主観を、昇り降りする、

 紫式部の論理学は、物語を通して、逆弁証法論理学と、現象学的還元が貫かれている。

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直線から円環へ

直線から円環へーデカルト、カント、ヘーゲル、マルクスその形而上学の変遷

                   Johann Sebastian Matthew Zdbac Ubel
弓武声慧

第1章  デカルト
 
 デカルトの「方法序説」では、「森は真っ直ぐ歩けば、抜けられる。」という、有名なくだりがある。近代科学の祖、デカルトの「我考える故に我あり。」は、森を直線に突き進む事を指南する。

第2章 カント

 カントの「純粋理性批判」では、人間には、アプリオリに、主観、悟性、理性が備わっていると、説かれる。12の範疇を持った、悟性が、理性によって、客観を捉える事ができる。しかし、その直線的に主観が捉えた、客観は、物自体という、神の領域の客観を捉える事はできない。あくまで、それは、主観的客観に過ぎない。

第3章 ヘーゲル

 ヘーゲルは、カントの物自体の限界に挑戦した。ヘーゲルの弁証法では、存在は無化し、生成する、という、SEIN-NICHTS-WERDENという、弁証法が、螺旋的に認識を昇って行き、主観的主観ー>主観的客観ー>客観的主観ー>客観的客観へと、認識レウ゛ェルが上がって行く。そして、それぞれの認識が円環的関係を取り結び、最期に、主観的主観と、客観的客観は大円団を組み、絶対知へと至る。

第4章 マルクス

 デカルト、カントが、主観から客観へと、直線的認識を重視したのに対し、哲学者としての、初期のマルクスは、客観から主観へと至る視点、客体から主体へと至る認識を、重んじた。そして、主体ー>客体、客体ー>主体へと、円環的に主体と客体が、認識される、円環的形而上学に至った。エルンストブロッホは、その円環の中心に、SEIN(キリスト教の神)を置き、西田幾多郎は、その円環的形而上学の中心に無を置いた。エルンストブロッホと西田幾多郎によって、現代の世界形而上学は、東洋、西洋問わず、同じ、円環的形而上学に至ったのである。
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構造主義からポスト構造主義における相対的剰余価値の在り方

構造主義からポスト構造主義における相対的剰余価値の在り方

             Johann Sebastian Matthew Zdbac Ubel
弓武声慧
 相対的剰余価値が、生活必需品の価格の低下によって、起こることを、肯定的に捉えない場合、非常にシニカルな階級分析に陥る。マルクス主義的構造主義者等の研究では、ボードリヤールらが、経済階級による、各家庭の台所や、家具の比較研究を試みた。最低生活必需品の低価格化で、相対的剰余労働が、増すのであれば、今度は、労働者階級の子弟が、ルイ ヴィトンやグッチを手に取る、事によって、相対的剰余労働を無くす、という、非常に転倒した事態が起きたのが、ポスト構造主義だった。簡単に言えば、労働者の親のすねかじりで、ブルジョワ級の贅沢をしようというのが、ポストモダニズムの本質だったように思われる。これが、日本におけるパルコ文化であった。
 労働時間を短縮するために、できた相対的剰余価値であったのに、今度は、贅沢をするために、相対的剰余価値を否定し、ルイ ヴィトンやグッチ(それが高級車やマイホームであれ)を買う為に、長時間労働を自らするようなもの。これが今日の、社会的状況ではないだろうか?
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相対的剰余価値について

相対的剰余価値について
           Johann Sebastian Matthew Zdbac Ubel
弓武声慧

 「資本論」では、労働日の章によって、産業革命時のイギリスの労働者階級の、工場労働時間について、語られている。12時間にも及ぶ工場労働が、普通だったその時代の、剰余価値は、絶対労働時間による、絶対的剰余価値によって、利益が得られていた。
 さて、あまりにも過酷な、その労働時間は、やがて是正され、相対的剰余価値が産まれる。それは、生活必需品の価格が低下する事によって、得られる剰余価値、利益である。
これは、或る意味では、肯定的に捉えられるべき、剰余価値の在り方ではないか?と思う。一定労働時間内で、価値を産み出すためには、生活必需品の価格の低下による、相対的剰余価値が必要だったのである。これは、経営者にとっても、労働者にとっても、双方喜ばしい剰余価値の在り方である。
 このように、「資本論」は決して、資本主義を全面否定するための、経済学書ではない。資本主義社会を解体し、その本質を見極めた上で、社会をより良く改善するための、
経済の医学書なのである。
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