Aska Temple

All about John Ubel and Aska Temple

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MOON TEMPLE ライナーノーツ by 田中浩一

「『月の裏側』についての音楽的考察」  
                  田中浩一

 僕は「他界」という言葉が好きだ。「亡くなった」「死んだ」という言葉が鋭角的に響くのに対し、「他界」とは、現実とはこの目に見える世界だけではないという”異界”を含める巨視的な視線が顕現する。僕がなぜこんなことをいきなり述べたのかと言えば、丁度シドバレットのことを想っていた時に、John Ubelから、この新作CDが届いたからだ。
 思えば60歳にして他界したシドバレットのカラフルにしてサイケデリックな曲の数々を世間では、狂気の産物とかドラッグ幻想と称して語るが、その特異な旋律、シェーンベルグの十二音階を早回しにしたようなめまぐるしい変幻自在さは、むしろ正気(正常)だからこそと思えるのだ。2006年7月7日に他界した彼を想っていた丁度その時に届いたAska Templeの新作は、John Ubel 曰く、”月の裏側にある都市”をテーマコンセプトにしていると言う。僕はまっさきに、例の怪物的セールスを出したピンクフロイドの”ダークサイドオウ゛ザムーン”を想った。そして新作を聴いた。傑作である。Ubelのシンセギターは、一層に繊細にしてうねる徹底したミニマリズムの極から一度解体させたかのようなダイナミズムを放つ。しかも明るい。明るすぎて深い酩酊状態を起こす程に。Pフロイドはかつて”ダークサイドオウ゛ザムーン”のアルバム制作時に「次作はオールインストゥルメンタルの現代音楽的アプローチのものになるだろう」と答え、紆余曲折の末にあの強いメッセージ性を放つ、言葉に重きを置いたものとなった。捨て去られた”オールインストゥルメンタル”を僕は想った。Pフロイドが捨て去った、もう一つの世界をずっと継承し展開し、深化させて行った果てにあるのがAska Templeの世界ではないのか。コンセプト的にも、そう言えばクラウスショルツも”ムーンドーン”と称する繊細的、しかしやや叙情的が過ぎるアルバムを出していたが、そのショルツに比べると、Aska Templeの方が勝っている。ダイナミズムと繊細さに於いて。
 僕はシンセギターのUbelやキーボード奏者の海賊放送91.5(Nicolai丸濱)とは親交が厚く二人共に、単なる神秘学ファンやオカルトファンとは次元が異なる程に、神秘思想や超自然学に造詣が深いことをよく知っている。特にNicolai丸濱は、陽性のキースエマーソンやPモラッツを凌駕する程の超絶テクでライヴ観客を唖然とさせるが、その底の徹底したペシミスティックでブラックユーモアに富む性質、精神は、恐ろしい程の”臨死体験への興味”に支えられている。そんな彼等が”月の裏側の都市”をコンセプトにするのだからつまらないはずがないのだ。テクノが巷に浸透し、トランスやアンビエント、ドラムンベースやノイズも消費されつくした感の強い現在の音楽シーンの中、そういった流行のウェーウ゛に乗っからずに頑固に己の道を極めるアーティストこそが認められる時期がもうすぐそこまで来ているはずだ。真のサイケデリア、真のオルタナティウ゛サイキックミュージックとしてAska Templeはもっと認められるべきなのだ。
 他界<ー>現実世界、彼岸<ー>此岸、狂気<ー>覚醒、こっち<ー>あっち、、、、
を往復する、否往復し”ここ””現実”に戻って来なければ優れた作品が作れない。”月の裏側の都市”を本当に見た者は、この現実に戻って、地に足を着けて作品を作るのだ。その往復をきっちりと、自分の足で歩いて実現できる者が作品を作るのだ。目に見えないものではあるが確実に存在するものを信じないものがどうして作品を作れようか?そういう問いかけを、真剣に投げかけるのがこの新作である。心して聴いて欲しい。そして音が鳴っている間は、魂を月の裏側に飛ばせ。トリップせよ。聴き終わったら、現実に地に足を着けて歩いてほしい。
 月の裏側おもひ鳥肌立つ腕を
      仔細に見れば百の尖塔
            (たなかこういち、短歌)


                          2008.3
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夜間大学生

夜間大学生     

                       弓場宗治  2007.4.18

第1章   
     秘密の礼拝堂

 高取城の城下町には、日本各地の地名がある。
例えば、上子島、下土佐、兵庫などである。ヨハンの住む村には、ホーランドという地名がある。オランダ、異国の地である。ヨハンの田の地名はホーランドである。
 昔、ホーランドの山の中に、秘密の礼拝堂があった。十字架やイエスキリストの像が、
蝋燭越しに見えた。ヨハンは小さい頃、その秘密の礼拝堂に行くのが愉しみだった。
 村の人々は、その礼拝堂を打ち壊した。

 第2章
     弓場神社

 高取城に続く裏山に、ヨハンの一族を崇める神社があった。
小さいヨハンは、本家のお兄さんの代わりに、弓場神社の拝殿に立った。見ず知らずのお婆さん達がヨハンにひれ伏した。
 その事があった後、村の人々は、ヨハンには民主主義教育を受けさせねばならない、と
神社を打ち壊した。


 第3章
     立命館大学文学部人文学科

 大阪のブルジョワの子弟の集まるミッションハイスクールを卒業したヨハンは、ブラントゥーシュ教諭の指導の下、一浪の末、立命館大学の夜間部に入学した。ロックバンドや映画制作、同人誌、演劇活動に忙しかったヨハンは、充分な成績を残せなかった。
 画材屋に勤めながら、ブロッヘン助教授の哲学講義を受けた。自転車を朝、京都市の北区から河原町五条まで走らせ、一日中自転車で京都中を配達して回り、そして自転車で五条から北区のキャンパスまで戻る。
 そういう毎日の中、夜間部の講義は非常に魅力的に映った。学問というのは、本当はこんな楽しいものだったのか、と働きながら勉強する事に喜びを禁じえなかった。
 社会科学研究会に入会した後、ヨハンは身体がまったく動かなくなる疲労に襲われ、職場を変えた。夜間部の学生は、昼間、看護婦をしている女性や、社会人の男性、他の4年制の大学を修了した後、職場から通ってる大人まで雑種多様だった。
 特に社会運動のためにマルクスを学習している人達の前で、ヨハンはこれはロックの歌詞のようなものだとは、言えなかった。ヨハンは仮面を被っていたようなものだった。労働者階級の向上の為に闘う他の学生の前で、俺は士族だとも言えなかった。
 何もかもが民主主義で統一されたキャンパスだった。


 第4章
     ブロッヘン助教授

 ヨハンは、小さい頃、祖母に日本各地の寺社仏閣巡りに連れられて行った。その中に
四国のクリスチャンの大学の尼僧の展示室があった。
 ヨハンの巻き毛を見て、「天使だぁ~」と修道士見習いの学生が叫び、尼僧見習いの女子学生と手を繋いで走って行った風景が、焼き付いてる。
 ブロッヘン助教授は、その大学から立命館大学の大学院に進んだ人だった。ヨハンの中では、あの修道僧見習いの学生と、ブロッヘン助教授が錯綜しながら、あたかも同一人物であるかのような親近感を抱いていた。

 第5章

     ルシュルー講師

 ルシュルー講師が新任の哲学講師として立命館大学の教壇に立った時、ヨハンは既にエンゲルスやマルクスの資本論第1巻の学習を終えていた哲学学生だった。基礎的な哲学史の教養と、マルクス経済学の素養を土台として現代のマルクス主義について講義するルシュルー講師の講義の内容が理解できた学生は、あの広い大教室の中で、ヨハン一人だった。「アンチオイディプス」の中の「機械も価値を生産する」という発言に、ヨハンは、経済原論を持って反駁した。ルシュルー講師とヨハンの付き合いはそれからだった。
 ルシュルー講師は、自分の研究会にヨハンを誘った。それは経済哲学研究会だった。そこにはブロッヘン助教授もいた。

 第6章

     経済哲学研究会

 経済哲学研究会は、大阪の雑踏を掻き分けたような場所にあった、ルシュルー講師の自宅にて、月1回開かれていた。メンバーは、伝説的な立命館大学の名誉教授、梯 明秀
と船山信一両氏の弟子によって構成されていた。ヨハンはハイスクール時代、松岡正剛氏の雑誌「遊」で、奇妙な宇宙自然史学を説く立命館大学の老教授、梯明秀と松岡正剛の対談を読んでいた。当時既に、経済学部の大学院でしか講義を開いていなかった老教授の講義を受ける機会はないだろうと、暗い自室で、ため息交じりに雑誌「遊」を閉じた記憶がある。ヨハンはその梯明秀の弟子達と一緒に、DAS KAPITALの原書を読んだ。ブロッヘン助教授のドイツ語の発音を真似た。看護婦のクラスメイトから何度も、部屋に泊まって行けと誘われても、ヨハンは、研究会の自分の受け持つページを訳す為に、誘いを断った。
 全共闘世代のルシュルー講師達の中で、ヨハンのような若者は珍重された。ヨハンは、神の名についてのレポートを提出したりした。しかし、まだカントの純粋理性批判を英書で読み進んでいる初級哲学徒であるヨハンにとって、プロのマルクス主義哲学者と一緒に鼻を付き合わせるようにDAS KAPITALを読む日々は、時期尚早だったように思われる。まだヨハンは、その時2回生だったのだ。
 その頃、ヨハンは自治会で重要な仕事を任されるようになった。そして立命館大学は変わろうとしていた。


第7章

   学費値上げ反対闘争

 1987年、立命館大学は、普通の営利目的企業としての大学に変わると宣言し、そのため猛烈な反対運動がキャンパスの内外に起きた。その嵐の中、ヨハン達の学生大会が成立した。「市バスの増便を要求します」とヨハンが走りながら叫ぶと大勢の学生が、学生大会場の教室に詰め寄せ。要求は実現した。
 全学民主主義の形を取っていた立命館大学では、学生と職員と教授会の話し合いが、何度も続いた。まるで集団団交のような大教室での対話集会で、少しの金額だけが学費から削られ、学費値上げ反対闘争は終わった。
 学生達はばらばらになり、立命館大学は変わった。


第8章  

    退学

 大きな門柱と新しい国際関係学部の校舎、女生徒は高価なブランド品を身に付け、男子学生は高価な自動車を乗り回す。
 仕事の休暇をとり、実家でDAS KAPITALやヘーゲルの精神現象学ばかり講読していたヨハンには、国際関係学部の女子学生達のミニスカートの群れを見て、ここはもう自分の通う大学ではないなと思った。キャンパスでヨハンは目立ち過ぎた。気づいた時には、キャンパスにヨハンの居場所は何処にもなかった。自治会の学生達は、市バスの増便の要求運動の責任者はヨハンだと、皆口裏を合わせた。がらがらの市バスが夜間、立命館大学駅から何台も走る。ヨハンは引責退学した。

第9章

    病院  そして  ロックバンド

 ヨハンは在学中60単位を取り、その中48単位はAだった。まだ勉強しなければならない事は、山ほどあった。しかしヨハンの実家のある田舎は、前近代的な農村である。ヨハンは勉強を続ける事が許されず、入院した。
 精神病院を退院したヨハンは、父の仕事を手伝いながら、ロックバンドのギタリストとして活動する。ヨハンはロックバンド活動をしながら、40歳まで哲学や文学を独学した。純粋理性批判を英書で37歳まで17年かかって全部読んだ。文学書を英語、ドイツ語、フランス語の原書で読み飛ばした。ヨハンが40歳になった時、NHKのラジオ深夜便で西川富雄名誉教授の講演を聴いた。その時、まるでその放送がヨハンの卒業式のように思えた。
 ヨハンは、現在或るNPO法人で働いている。


 そして、この春

  立命館大学の夜間部は

           なくなった。

 






                              fin









  
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芸術家が客観性を獲得する時

芸術家が客観性を獲得する時

 1980年にFACTORYよりFIRST ALBUM「THE RETURN OF THE DURUTTI COLUMN」、
1981年に「LC」、1983年に「ANOTHER SETTING」、「LIVE AT THE VENUE LONDON」(VU VINI)、「AMIGOS EM PORTUGAL」(FUNDACAO ATLANTICA)、1984年に「WITHOUT MERCY」、1985年に「DOMO ARIGATO」と順調に作品を発表し、ヨーロッパ、日本ツアーをこなしてきたTHE DURRUTI COLUMNの1986年のALBUM作品が、
この「CIRCUSES AND BREAD」です。
 VINI REILLY氏以外のレコーディング参加メンバーは、BRUCE MITCHELL(PERCUSSION,XYLOPHONE)、TIM KELLET(TRUMPET)、JOHN METCALFE(VIOLA)と'85年の日本ツアーのメンバーでレコーディングされています。'86年のNEW YORK LIVEでもVINI REILLY、BRUCE MITCHELL、JOHN METCALFEのメンツでの録音が残っています。当時は、このメンバーで活動していたようです。
 LPに収められていた作品は、「BLIND ELEVATOR GIRL(OSAKA)」までで、今回の再発にあたり、9曲のボーナストラックが収められています。その中には、1983年のシングル「I GET ALONG WITHOUT YOU VERY WELL」(VOCALはLINDSAY READE)や'83年にお蔵入りとなったアルバム「SHORT STORIES FOR PAULINE」からの曲、COMPILATION ALBUMに収められていた「VERBIER」「THE AFTERMATH」などが収められています。
 THE DURUTTI COLUMNというバンド名は、スペイン市民戦争で活躍されたBUENAVENTURA DURRUTIと彼の影響を受けた1960年代の国際的状況主義者のCOMIC STRIPからとられたようです。このCOMIC STRIPなるものは、BEATLESの映画「マジカルミステリーツアー」に出てくるサーカス団のテントで行われる見せ物劇だと思われます。'60年代のNEW LEFT達がサーカス団の経営を生業にしていたのは、当時からヨーロッパ中そうだったようです。代表的なのが、ミッテラン政権時代のフランス冬期オリンピックのアトラクションですね(音楽はフランスの坂本龍一、ヘクトールザズー)。順調にアルバム作品を発表し、ツアーをこなされていた当時のVINI REILLY氏が「サ-カスとパン」という題名のタイトルを付けられたのは、一種のユーモアでしょうが、ミュージシャンにとって、音楽で生活していくという抜き差しならない問題を、NEW LEFTのサーカス団達に重ね合わせるのは、深読みのしすぎでしょうか?
 VINI REILLY氏は1953年マンチェスター生まれ。ご幼少のおりから、ピアノを弾いておられ、10歳の時から正式なクラシックギターの教育を受けておられます。彼のギタースタイルは、フィンガーピッキングの生爪でエレクトリックギターを弾くという独特なスタイルで、主にディレイがかけられています。クラシックギターの奏法をそのままエレクトリックギターに用いられた楽曲は、リードメロディと伴奏がほぼ同時に演奏され確かにマエストロと称されるにふさわしいですね。またキーボーディスト、シンセストとしても有能な方で、プログラマーとしてもアルバム「OBEY THE TIME」やシングル「KISS OF DEF」で聴かれるように大変有能でいらっしゃいます。
 VINI REILLY氏について考えると、最近本で読んだミュージシャンの惑星プレイアデス
から地球にやってきた人々について思いをはせてしまいます。妖精や天使のようなこの世のものとは思えない存在であるのは確かです。
 THE DURUTTI COLUMNは現在も約1年に1作のペースで順調に新作アルバムを発表され、ツアーを行っておられます。まさにマンチェスターの栄誉と称されるご健在ぶりです。
                               JOHNUBEL
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マンチェスターの栄誉

マンチェスターの栄誉 VINI REILLY
 THE DURUTTI COLUMNのVINI REILLY氏は1953年マンチェスター生まれ。幼少の頃は、ピアノを弾いておられ、ART TATUMやFATZ WALLERなどのモダンジャズに影響を受けた子供だったそうです。10歳の時から正式なクラシックギターのレッスンを受けておられ、ジェントルマンの老紳士の教授を受けておられたそうです。クラシックしか聴かない上品な少年期だったそうで、ロックはおろかポピュラー音楽自体聴かなかったので、学校のご学友とまったく音楽の話題が合わなかったそうです。
 1977年に、彼は、ED BANGER や、MORRISSEYが在籍していたTHE NOSEBLEEDSのメンバーらと共にパンクムーヴメントに加わります。当時の彼等はギターとアンプによるフィードバックノイズによるかなり荒唐無稽な演奏をしておられたそうです。VINI REILLY氏は一度そのような活動から身を引かれます。
 マンチェスターのご自宅で、4トラックのオープンリールデッキで作曲活動をしながら引き籠ってられたVINI REILLY氏は、1978年にFACTORY RECORDSの社長TONY WILSON氏に招かれTHE DURUTTI COLUMNとしてのレコーディングをされます。DURUTTI COLUMNという名前は、スペイン市民戦争時に活躍されたアナーキストBUENAVENTURA
DURRUTIと、1960年代の国際的状況主義者のCOMIC STRIP(BEATLESの映画マジカルミステリーツアーに出てくるサーカス団のテント内で行われる見せ物のようなもの、と思われる)からとられたそうです。
 アルバム作品は、1980年に「THE RETURN OF THE DURUTTI COLUMN」(FACTORY)
初回はSANDPAPERによるジャケット。1981年に「LC」(FACTORY)、1983年に「ANOTHER SETTING」(FACTORY)、「LIVE AT THE VENUE LONDON」(VU VINI)4000枚限定、「AMIGOS EM PORTUGAL」(FUNDACAO ATLANTICA)、1984年に「WITHOUT MERCY」(FACTORY)、1985年に「DOMO ARIGATO」(FACTORY)live in Japan、1986年に「CIRCUSES AND BREAD」(FACTORY BENELUX,FACTORY)、「VALUABLE PASSAGES」(FACTORY)、1987年に「THE GUITAR AND OTHER MACHINES」(FACTORY)、1988年にMORRISSEYのsolo debut「VIVA HATE」に参加、1989年に「VINI REILLY」(FACTORY)、1990年に「THE SPORADIC RECORDINGS」(SPORE)4000枚限定、1991年に「OBEY THE TIME」(FACTORY)、「LIPS THAT WOULD KISS」(FACTORY BENELUX)、「DRY」(MATERIALI SONORI)、1994年に「SEX&DEATH」(FACTORY TOO)、1996年に「FEDELITY」(CREPUSCULE)その頃FACTORY ONCEからバックカタログが再発、1998年に「TIME WAS GIGANTIC...WHEN we were kids」(FACTORY TOO)、この頃FACTORY時代のほぼ全ての作品がLONDON RECORDSよりDEGITALLY REMASTEREDで再発されております。1999年に「A NIGHT IN NEW YORK」(ROIR)'86年のCASSETTESより。2000年に「THE BEST OF THE DURUTTI COLUMN」、2001年に「REBELLION」(ARTFUL RECORDS)この頃、映画「24 HOUR PARTY PEOPLE」が制作されております。2002年に「THE RETURN OF THE SPORADIC RECORDINGS」(KOOKY)限定2500枚、2003年に「SOMEONE ELSE'S PARTY」(ARTFUL RECORDS)、2004年に「TEMPUS FUGIT」(KOOKY)、2005年に「KEEP BREATHING」(FULLFILL)、2007年にも新作が発表されているはずです。
当作品「LIPS THAT WOULD KISS」は1980年~83年の間に作られたシングルやCREPUSCULEのCOMPILATION ALBUMSに収められた作品と1983年にお蔵入りになった
アルバム「SHORT STORIES FOR POLINE」からの作品で作られております。ここで聴かれるVIOLINは、TUXEDOMOON のBLAINE L. REININGER、HARP奏者は、ANNE VAV DEN TROOST。美しいFIRST SINGLE「LIPS THAT WOULD KISS」はTS.エリオットの1925年の詩、「The Hollow Men」からタイトルを拝借されたようです。バイロンにも通じる美しいイギリスの詩人達の形而上学が感じられますね。
                                 JOHNUBEL

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AKASHIC LOVE RECORDS

アカシック ラウ゛レコード 

始まりはBAY CITY ROLLERS
 初めに言葉ありき。それは、S-A-T-U-R-D-A-Y-NIGHTだった。亡霊と遊ぶ毎日の10歳のヨハンにとって、ラジオから流れる、BAY CITY ROLLERS の爽やかなメロディーは、まるで悪霊を払うキリスト教の光だった。後に15歳で入学したST.ANDREW'S BOY'S HIGHSCHOOLは、スコットランドの教会、アンデレ教会の学校だった。BAY CITY ROLLERS の様々な名曲は、10歳のヨハンにとっては、聖歌に近い音楽だったし、今も多くの大きな子供を持った大人の女性達と同様、聖歌である。それは愛の伝導、としてのキリスト教の布教に他ならなかった。

QUEEN,BOSTON,STYXそして女の子達とマリエンヌ
 10歳になったヨハンは、ひたすらラジオを聴きまくった。ラジオから流れてくる洋楽は、どれも天界の音楽のように聴こえた。そしてシングルレコードを買い、LPレコードまで買った。11歳になった時、新聞配達のバイト代でグレコのJEFFBECKモデルの黒のレスポールを手に入れた。レコード棚は次第にLPレコードで埋もれて行った。QUEENの
FIRSTからNEWS OF THE WORLDまでのLPを全部集め、愛聴した。そしてBOSTONのDON'T LOOK BACKやSTYXのPIECES OF EIGHTのLPがいつもターンテーブルに載せられた。12歳になった時、突然、6畳間の2階のヨハンの自室に、マリエンヌを含む6人の女の子が遊びに来た。テレコにわぁーわぁー叫び、吹き込んで帰って行った。
 そういうレコードに浸った毎日は、次第にVAN DER GRAAF GENERATORのようなマニアックなレコードコレクションに変容していった。



VANDER GRAAF GENERATOR
ピーターハミルの歌う絶望の中の希望とは、丁度カミュの異邦人の形而上学として発表された「シーシュポスの神話」における深い絶望の中の希望と一致する。ギリシャ神話の中のシーシュポスは、冥界から地上に、そしてまた地上から冥界に、帰ってくる事を条件に、一時地上に戻る事を神から許されたが、許可時間内を過ぎても冥界に帰らなかった罰として、山の頂上に大きな石を運び、頂上に達しては、またその大きな石は麓まで転び落ち、そしてまた、シーシュポスは大きな石を山の頂上まで運び上げる繰り返しが永遠に続くという思い刑罰を課せられた。カミュはその不条理ゆえに神を否定し続ける自由がシーシュポス像にある、とシーシュポスの喜びと希望を謳う。しかし、その世界像には、神が居る事が前提なのであり、反抗すべき神の不在した世界ではまるで、その不条理だけが、野ざらしにある、希望なき不条理だけなのである。ハミルは、善玉の天使ヒンメルとして、神が存在するのを無条件に前提して、善玉の天使として神に甘える。ハミルにユダヤキリスト教の神が存在するのは、大前提であり、それゆえ善玉の天使としてその正当性を世に問い続け、そして世界の人々はVANDER GRAAF GENERATORを認知こそすれ、買わなかった。ハミルには、狡猾な商売はふさわしくない。神を否定するシーシュポスの如き、ヨーロッパ中をツアーして廻るハミルの永遠運動 
がアメリカで商業的成功を収める事はなかった。ハミルの謳う、反抗すべき神の存在が、アメリカにはなかったからであり、そこには野ざらしの神なき不条理、希望なきシーシュポスがあったのみなのである。
 代わりに商業的成功を収めたのは、ルシファーとしての悪魔を狡猾に演じ、ひたすら商売に徹した、ジミーペイジであり、ディオニソスとしての自分を自覚したロバートフィリップであることは言うまでもない。神なき世界では、悪魔にドルが落とされるのが自明であり、それを見抜きルシファーを演じたジミーペイジの勝利だった。



ARTBEARSとヘーゲル論理学

HENRY COWのクリスカトラーが、フレッドフリス、ダグマークラウゼと結成したARTBEARSのレコードに関して、クリスカトラーは、ヘーゲル弁証法を用いて説明した。ヘーゲル論理学における弁証法とは、主観的主観、主観的客観、客観的主観、客観的客観の4つの段階が止揚され螺旋階段上に認識が上がって行くものであり、ARTBEARSの3枚のレコード、HOPES&FEARS,WINTERSONGS,THE WORLD AS IT IS TODAY,はぞれぞれ、主観的客観、客観的主観、客観的客観だと、彼はカトラー家を訪れた故北村昌士氏に答えた。ヨハンは、13歳のとき、ヘーゲル論理学の実践数学を解いた。その数学問題集は、4つの弁証法が交互に螺旋状に上がって行く、抽象的思考を養うものであり、それはまさしく子供の為のヘーゲルだった。その中で、いつも客観的客観として解く問題は、中卒の両親の子供であるヨハンが将来到底扱う事のない、東京大で使うような統計数学だった。クリスカトラーが客観的客観と称するTHE WORLD AS IT IS TODAYの裏ジャケットには、原爆が落とされる自由の女神が描かれてあり、ダグマークラウゼの甲高い声で揶揄されるDEMOCRACYなど、17歳のヨハンには震撼を憶えるものだっただけでなく、哲学徒になった、20歳のヨハンの前に、恩師の先生、武市健人の著作、「ヘーゲル
非情の哲学」という題名に出逢った時も、またしてもヘーゲルの論理学に震撼させられた。



HENRY COWとマルクスそしてスターリン批判

HENRY COWのUNRESTを手に入れたのは、ヨハンが14歳の時だった。子供には背伸びし過ぎたその前衛ジャズロックを理解する機会は、いとも簡単に訪れた。部屋の小さな白黒TVに、丁度UNRESTをかけていた時間に流れたNHKのニュース映像だった。ポーランドに戒厳令が敷かれ、ソ連の軍隊がポーランドを制圧している映像だった。HENRY COW のUNRESTはまさに、ポーランドの連帯がソ連にはむかい、戦車に押しつぶされて行く、そんな状況に対する不安だった。マルクス、そしてスターリニズムとスターリン批判、岩谷宏氏がロック雑誌を読む子供向けに説く文章は、ヨハンには難解ではなかった。ヒットチャートを賑わすロック音楽はすでに、14歳のヨハンのターンテーブルには載らなかった。マルクス。19歳のヨハンは必死に資本論の第1巻を読んだ。社会科学研究会で読み進む商品論における貨幣の起こり方は、ドフトエフスキーの大審問官に通ずる問題を感じた。そして後に読んだ、埴谷雄高の著作におけるスターリン批判に、一党独裁政権の問題を子供に論じた岩谷宏の言いたかった事が全て理解できた。



マルクスとそれ以後ーHELDON、裸のラリーズ

'68年のカルチェラタン世界全共闘運動を象徴するロックバンドとして、アメリカのGRATEFUL DEAD、フランスのHELDON、日本の裸のラリーズは、大学のバリケード内での演奏がキャリアの出発点である事から類似した性質を持つバンドである。’68年は、ヴェトナム反戦運動、中国の毛沢東の文化大革命、そしてプラハの春が世界中を駆け巡り、世界中の学生が蜂起した。そしてHELDONと裸のラリーズは、そのノイジーな暴音故、共通項も多い。サルトルの主体的自由論が弁証法的理性批判として、ただフランス共産党イデオローグに革命的に批判的にあろうとしたシチュアシオン(状況)は、構造主義によって、時代遅れになりつつあった。文化人類学者や心理学者にもてはやされた構造主義が、経済哲学の分野では、ほとんどアルチュセールのマルクス主義的構造主義によって
独占されていた。アルチュセールの専制的な構造主義的マルクスは、フランス共産党の上層部へと上がって行く、全てのフランスエリートインテリゲンチャの源、高等師範学校の哲学教授をして、フランス思想界の独裁スターリニズムとして、’68年のカルチェラタンの格好の攻撃対象となった。その頃、ジルドゥルーズは心理学者フェリックスガタリとともに、専制的マルクス哲学者アルチュセールと構造主義的心理学者ラカンに対する、アンチテーゼとして、’68年の思想を、「アンチオイディプス」に書き留めた。HELDONのリシャールピナスは、ジルドゥルーズの下で哲学を学ぶ若き哲学研究者だった。フランス唯物論を更に先鋭化した彼の金属論は、HELDONの鉱物的金属質の音楽のベースとなる
形而上学である。そのシークエンサーと同時に刻まれる生のドラムスとウ゛ァイオレントなギターの即興演奏が模索する世界は、構造主義から逃れようとする、自由への渇望であり、ポスト構造主義の音楽とは、HELDONそのものに他ならない。
 '83年にヨハンが京大西部講堂で観た、裸のラリーズもまた、京都のカルチェラタンの象徴であった。水谷孝のヴェルヴェットアンダーグランドを思わせるスタイリッシュな感覚が貫かれた、OHPとスライドが交差する映像を伴ったショーは、轟音とエコーのかかった’68年の音以外の何物でもない。
 マルクスの研究は、初期草稿に重点を置いたエルンストブロッホや、自然主義哲学としてGREENに影響を与えたA.シュミットらの円環的自然主義、唯心論と唯物論の円環的形而上学と、フランスではデリダのマルクス葬送論により、調度ソ連が終わる頃帰結した。



RUSH ?  シリウスの僧侶達
 シリウス星人は、プレイアデス星人と共に、小熊座、大熊座に位置する、ルシファーのサタンの惑星と敵対する。かつては太陽系のそれぞれの惑星にも知的生命体がいて、地球は楽園として中立であり続け、様々な天使とルシファーが様々な同盟や争いを起こす。
 西暦2012年、ジョージオーウェルが1984で預言した管理社会が、既に2012年に完成され。そこには必然性の自由のみしかなかった。
 或る若者がギターを発掘し、「何だ、この音は?」と驚嘆する場面より、RUSHの西暦2012年3部作が始まる。プレイアデスはミュージシャンの星である。もしシリウス人たちが、その超管理社会を地球に張り巡らせるのに成功しても、音楽が否定されるのならば、プレイアデス星から転生した地球のプレイアデス人が本来の才能を発揮できない。そこで、追放されたルシファーとプレイアデスの盟約で起こるのが3部作最後の神々の戦いであり、再びTUNEを取り戻すためのバトルを、RUSHはたったスリーピースで表現する。
RUSHの哲学的なSFハードロックは13歳のヨハンを虜にした。

LED ZEPPELIN ー 愛の布教師としてのルシファー
 猥褻なダヴル、トリプルミーニングを駆使したギャグで歌われるLED ZEPPELINの愛とは、身体的な色欲にこそ、本来の精神的なLOVEに行き着くことを布教する。それはインドのヨギが教える慈悲の世界を、誤って解釈された何物か、に通ずるものがある。LED ZEPPELINとは、ルシファーが神と戯れ、そして愛をルシファーのやり方で教える、方法が間違ってはいても、行き着くところは普遍的な愛なのである。LED ZEPPELIN DVDで観れる彼等の映像と音は、あらゆる意味で、男女問わず性欲を刺激する。そのEROSとは、最終的に解脱するための手段と方法の一つなのかもしれない。



東洋と西洋の折衷する形而上学ーTANGERINE DREAM

西田幾多郎氏の絶対無の形而上学とは、中心に絶対無を置き、主体と客体が円環的に相互作用する画期的な形而上学である。それは、ヘーゲルーフィヒテーシェリングの彼のドイツ観念論の研究の果ての、仏教的アプローチとして収めた形而上学的成功であった。
ユダヤーキリスト教の流れでも、初期マルクスの唯心論と唯物論、主体と客体の円環的形而上学、エルンストブロッホにおける、中心をSEIN(存在)とした主体と客体の円環的弁証法。ハイデッガーのSEIN UND ZEITに於けるSEIN(存在)を本質として追求するキリスト教的アプローチ、サルトルの実存哲学が主観的に、存在と無について、現象学的アプローチを行ったのは記憶に新しい。仏教の経典では有るも無いも同じと、良く説かれる。
マナ識はマイナスXマイナス=+である。その意味で、西田哲学とエルンストブロッホの形而上学は、グローバルな世界形而上学である。
 TANGERINE DREAM のリーダーEDGAR FROESEは、旧社会主義圏の東欧からの亡命者で、'60後半にサリバドールダリ氏の邸宅で、サイケデリックバンドの活動をしていたのが、キャリアの最初である。東欧は、中世ヨーロッパでは、ボヘミアと呼ばれ、異教的色彩の濃い地方であった。東洋と西洋の折衷する神秘思想の国、ボヘミア。ユング心理学を持ち出すまでもなく、西洋と東洋の潜在意識は、もともとグローバルなものなのである。




REQUIEM FOR MY MOTHER-エレクトリックピアニスト 椎崎靜代

 まだ10代後半の女の子が、ジャズバンドのエレクトリックピアノを弾きまくり、グランドピアノの鍵を次から次へと切りまくる演奏は圧巻だった。母椎崎靜代の若かりし日の姿である。母はモデルとしても人気があり、母の所属するジャズバンドは大きなホールも満員にした。小さな編成のバンドのライヴでは、気が向けば弾き語りもしたという。
 ヨハンが小さい頃、母の実家で観た母の若かりし日の写真は、ヨハンにとっての母とは全くの別人だった。様々なドレスを身に纏い、高価な宝石を身につけ、毎回ヘアドレッサーやメイクの手が懸かった、豪華なセットで撮影された写真の数々。母、椎崎靜代が一体何者であったかは、ヨハンには、未だもって謎である。
 母、靜代は人気が臨界点に達する直前に、失踪した。モデルとしても、ピアニストとしても、全て20歳になる直前に辞めた。和歌山の御坊の山谷にある実家に戻り、後を絶たない業界からの復帰の催促を裁ち切るかのように、高取城の城下町の材木問屋の家政婦になり、父と結納をかわした。
 母の嫁入り道具はトラック一台充分あった。もちろんエレキピアノもあったし、母が衣装で使ったドレス類は山ほどタンスに入れられ持ち込まれた。しかし、戒律に厳しい祖母が全て実家に返させ、若かりし日の母を偲ぶものはほとんど残されなかった。
 晩年の母は、家の庭を花畑にする毎日だった。ヨハンがピアノを弾きだしたとき、一度母は、あんたの後生大事に聴いている音楽はたいした事無い。とピアニストの先輩として
忠告してくれた事がある。死の直前に至っても母は、ヨハンには何も語らなかった。ヨハンの弾くピアノが、ピアノの弾き方までそっくりだ、と神戸のJAZZLIVEHOUSEのマスターから指摘された時点で、我々母息子の全て隠された果ての、遺伝子は開花していた。
 母の納骨を済ませた最初の夏、仏壇のある部屋で寝ていたヨハンの前で、亡き母の若かりし日の姿が、映像として一晩中映された。まるで、高貴な貴婦人のように映るその昔の若い婦人が、自分の母親になる人とは思えず、なぜ60'sの婦人が自分の前に映し出されるのか理解できなかった。様々なLIVE演奏が映し出された。自分の生まれるずっと昔のJAZZのLIVEの映像ばかりだった。
 朝、目覚めたとき、その夢に出た婦人と、自分が子供の頃見た、母の写真が一致した。

ASKATEMPLEの音楽とは、既に母、靜代の代から続いている、一種のDNAMUSICなのかもしれない。その遺伝子の発掘の旅は一体何処まで続くのであろうか?



                              JOHN UBEL
ヨハン ユーベル

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Workin' Them Angels

Workin' Them Angels
John Ubel



 1st work
Ghost writer&Brother

 Villageの山の中に美しい教会が建った。ステンドグラスに透き通る光の粒子は、あた
かも聖霊が乱舞しているかのような非日常的な空間だった。
 3歳で特殊教育を受けながら、書いた漫画の原作のギャラを持って、マタイは、ドイ
ツ人牧師の下での三ヶ月の修練の後、たった三歳の牧師として、Villageに教会を建てた。
パイプオルガンやラテン語の修行を終わったマタイが、大人のシスターをまとめるのは
無理だった。ラテン語を訳せと要求するシスターの前でとまどうマタイは、シスターの
自由に任せていた。そうすると、或るシスターが農夫と教会で戯れていた。マタイはた
った三ヶ月で教会を移転させた。
 マタイは、特殊教育期間、三歳でドイツ語やフランス語の文学や哲学書を読みながら、
漫画家のお兄さん達と仕事をしたギャラを、たった三ヶ月で使い果たしたわけである。
多額なギャラだった。マタイはたった三歳のゴーストライターだった。祖父の寄付金で
特待生扱いされていたマタイは、事情を良く知らない乳母さんたちから小言を言われ続
け、ハンストを繰り返していた。一日一食しか食べなかった。一歳から二歳、マタイは
食べなかった。食べないマタイとして、仲間には知られていた。三歳になる時、或る乳
母さんが、マタイに三食食べさせるのに成功した。しかし、マタイは、すすんで雑巾が
けなどをするようになった。見るに見かねた先生が、漫画の原作の仕事を持って来た。
そして、或る漫画の原作が当たり、マタイには仕事場が与えられ、遠くから若い漫画家
のお兄さん達がたくさん通うようになった。マタイは数えきれない程の多くのマンガの
原作に関わった。フランス文学からアイディアをそのまま持ってくる事もあった。中に
は、いつも永い時間待たせてしまう、漫画家のお兄さんもいたくらい、マタイの仕事場
は繁盛し、賑わっていた。ノヴァーリスやヘルダーリンのドイツ文学に出てくる少女の
姿を翻訳して、カットアップした少女漫画の原作をマタイは書いた。他の全ての仕事は
名前を出さない約束のゴーストライターだったが、その少女漫画の原作だけ、マタイの
洗礼名、John Matthew をペンネームとして入れた。
 莫大な仕事の量を、若い漫画家のお兄さん達とした代償として払われた金額は多額だ
った。マタイはそのお金でアメリカに先生と渡る予定だった。しかし、当時三歳児にパ
スポートは降りなかった。空港で先生と別れた。マタイは泣かなかった。
 「強く生きて行くよ。」
とだけ先生に告げた。
 教会を移転させ、普通の子供に戻ったはずのマタイは、マタイにエルンストブロッホ
全集をドイツ語で読ませたガトワーシュ講師と長電話して、馬鹿みたいな空想話ばかり
して遊んでいた。そんなガトワーシュ講師とのやりとりの中で、或るアニメの、「竹コ
プター」と「どこでもドアー」のアイディアが生まれた。ガトワーシュ講師とマタイの
共作アイディアとして、すぐ採用され、
 「子供に現金を渡すのはちょっと。」
というマタイの父に、ガトワーシュ講師は遠慮して、当時高価だった「埴谷雄高作品集」
をギャラのかわりに送ってくれた。マタイは「死霊」だけ読んだ。
 「他のも読め。」
とガトワーシュ講師は言った。
 「死霊に出てくる、矢場とはマタイ君の家の事なんだよ。」
 ガトワーシュ講師は、立命館大学での講義でドイツ語しか使わなかった。いつまでも
三歳児とくだらないおしゃべりばかりしている、ガトワーシュ講師が心配になって、マ
タイは、
 「夜間部でも講義して、同じくらいの年齢の人と接して下さい。」
と言った。
 ガトワーシュ講師は、夜間部でも教え始め、なかなか連絡が取れなくなった。博士号
を取ったガトワーシュ講師はある夜、マタイに、
 「学生運動に撒き込まれて悩んでいる。」
と相談した。化学者の祖父の孫、マタイは、特殊教育機関で化学書の或るページを読ん
でいた。まだ三歳のマタイに人間らしい理性はまだ備わっていなかった。
 「学生運動の必勝法なんて簡単やん。」
 「大学の屋上からサリン撒いたら本当のインテリだけ生き残る。」
と、平気で返事するマタイに、ガトワーシュ講師は、三歳の彼に、
 「恐ろしい人だ。」
と言った。
 漫画のアイディアの著作権料が、また追加で支払われた。原書の「エルンストブロッ
ホ全集」を、ガトワーシュ講師は、マタイの誕生日に送ると空約束した。マタイは送ら
れてくるのを待っていた。本は届かなかった。代わりに現金が、マタイの家の銀行口座
に入れられた。空海の命日、四月二十一日にガトワーシュ講師は亡くなった。マタイの
四歳の誕生日だった。




 2nd Work
Pilgrims&Ghost writer

 ガトワーシュ講師の死がショックで、マタイは、毎日泣きに泣き、泣きつかれてはま
た泣きわめく毎日に、マタイの祖母が、
 「お遍路さんに行って、弔いましょう。」
と言ってくれ、マタイとお祖母さんは、お遍路の旅に出た。
 四歳児の男の子と老齢の婦人のお遍路には、道行く人々が皆とても親切だった。
 「白装束よりジーパンの方が良い」
というマタイに、
 「この服の方が負担がかからないの、それにお遍路さんはこの装束をするの。」
と祖母はたしなめた。
歩き疲れても、自分の自由に休息は取れなかった。自販機のジュースをねだっても、祖
母はコインを出さなかった。
 「六根清浄、六根清浄」
険しい山道を歩くマタイは、祖母に
 「何でこんな事やらんなあかんねん。」
と愚痴をこぼした。
 ガトワーシュ講師の弔いのために出たはずの旅だったが、寺から寺へ巡礼する最中、
様々な宗教の先生から、ガトワーシュ講師の事も、特殊教育の事も、教会の事も、忘れ
るよう説得された。
 ただ歩き、寺から寺へと巡る日々の中、マタイの頭の中からドイツ語やラテン語は消
えて行った。疲労の極限に至っても、まだ歩き続けなければならない。頭の中は真っ白
になっていき、何の言語も浮かばなくなっていった。
 1970年当時、幼児の男の子がお遍路さんをしているのは、珍しく、マタイと祖母のお
遍路は、人々の話題になり、遠くから自動車で二人のお遍路を眺めにくる人達が、後を絶
たなかった。
 或る高知の浜辺で、祖母は、入り江から水平線の海の遠方をずっと見つめていた。風が
吹いていた。入り江の奥にあるのは、水平線と青い海だけだった。祖母は、遂に祖母の先
祖とのコンタクトに成功した。
 「この海から来た。」
祖母は、先祖とのコンタクトではっきり宣言した。そしてマタイに、
 「お前はヨーロッパに帰れ。」
と告げた。
 あまりにも永い間、祖母とマタイは浜辺に立っていたので、取り巻きの人々には、その
二人はそのまま心中してしまうのではないかと思えた。或る推理小説作家先生が、祖母と
マタイに、
 「この話を僕の小説で使わせてくれ。」
と、マタイと祖母の巡礼を自分の小説に使わせてもらうかわりにと、札束を何束も積み上
げた。漫画の著作権料で旅に出ていたマタイと祖母は、
 「お金は要りません。美しい話を書いて下さい。」
とだけ言った。
 何処でも親切にされた巡礼だったが、可愛そうにと、おにぎりをマタイに渡そうとさ
れたのに、マタイは、施しされたと怒っておにぎりを投げた。推理小説家M先生は、自
分の作品に、その逸話を入れた。
 旅から、マタイと祖母が帰って来てすぐに、M先生はマタイの家に電話をかけてきた。
 「プロットに悩んでいる。」
とM先生はマタイに言った。マタイはどうせ自分の話を書かれるならと、M先生と二人
で、電話越しにストーリーを作っていった。警察の捜査のシーンは、もちろんM先生に
任せた。マタイのアイデアは、男の子の巡礼のシーンの後は、すぐに、その男の子はピ
アニストになっているというものだった。特にラストシーンを美しく描く様に、M先生
に注文を出した。
 その話は後に、「砂の器」として世に出た。M先生からマタイは、ゴーストライター
として、かなりのギャラを受け取った。



 3rd Work
Ghost writer Again

 田舎の公立幼稚園で普通の幼稚園児としての生活を送っていたマタイに、三歳の時一
緒に仕事した漫画家のお兄さんの一人、R先生が成功して立派になって、幼稚園に訪ね
てきた。
 「昔の事は忘れるように、先生から言いつかっている。」
と答えるマタイに、R先生は激怒し、特殊教育機関に連れ戻した。マタイは、祖母から
着物と風呂敷を持たされて、教育機関に一時戻った。その格好は、三歳児の時、自分が
原作に関わった漫画の実写版で、自分が演じた子役の衣装だった。ドイツ語どころか、
漢字すら忘れて、ひらがなからやり直していたマタイを、みんなは馬鹿にした。R先生
は、
 「マタイ君のギターだよ。」
と、クラシックギターとエレキギターを指差した。マタイが漫画の原作で買った自分の
ギターだった。教育機関を去る時、そこの因習で置いて行った。マタイがかわりに持っ
て帰った自分の物は、ゲーテやシラーやノヴァーリスのドイツ文学の原書だった。その
原書数冊は、立派なハードカバーの装飾が付いた本だったが、教会を移転させてから、
向いの家の体育教師から預かると言って、十字架と一緒に盗られた。
 元の仕事場で、マタイが何か漫画の原作のようなものを書き出した時、ヴァイオリン
やピアノの練習をしている子供達の中にいるのが、居心地が悪く、
 「ここは、逆に環境が悪いから先生の仕事場で、大人に交じって書く。」
とR先生のスタジオに大人のスタッフと机を並べ仕事をしだした。スタジオは24時間態
勢で徹夜が続いた。R先生の下宿は、マタイの事でR先生夫妻が喧嘩になるのが、度々だ
った。マタイは、巨大なロボットの中のコクピットで、ロボットを操縦する少年のアイ
ディアを書いた。スタッフのお兄さんが、
 「これ良いねえ。くれない?」
と言った。マタイはそのアイディアをスタッフのお兄さんにあげた。マタイが書くアイ
ディアは、R先生のいない時、良くスタッフのお兄さんやお姉さん達に渡していった。
その間にマタイの書く物語は、三歳の時から書いた物語から数えると、百話目になりか
けていた。
 そして調度、百話目の物語を書き終えた時、R先生は、スタジオのスタッフのお兄さ
んやお姉さんたちがマタイのアイディアを盗っていた事を知り、怒りだした。著作権が
ゴチャゴチャになり、計算ができなかったのだ。マタイは、これ以上スタジオに居ては
小学校に進学できなくなるところだった。
 「ちょうど百話書いたから作家としては死んだ。ギャラはここに寄附する。」
と言い残してスタジオを去った。マタイが五歳の時書いたものにギャラは支払われなか
ったが、十七歳の時、ST ANDREW'S BOY'S HIGHSCHOOLのSF研究会で、既にアニメーシ
ョンの仕事をしていた友人が、アニメ化された、マタイの当時の原作の著作権問題を仲
介してくれ、マタイは全額ユニセフに寄附してもらう様伝えてくれ、と頼んだ。多額の
著作権料が、John Matthewの名前でユニセフに寄附された。
 その時、マタイは、SF研究会の顧問から、
 「君が、三歳の時勉強したアフィン幾何学の新しい研究が出ているからレポートを書
いてみないかね。」
と誘われ、現代数学のアフィン幾何学の'80年代に入った研究における、アフィン微分
幾何学、野水克己理論に対するレポートを英語で書き、野水克己氏のアフィンはめ込み
理論への批判を提出した。その数日後、マタイはアンデレ教会で、或る儀式を受けた。





 4th Work
Agriculture&Newspaper delivery

 無事、実家の近くの公立小学校に入学したマタイは、八歳から新聞配達をするように
なった。マタイの住んでいる区だけの配達を、最初の二年は一人で、十歳からは、弟と
二人で配達した。雨の日も風の日も雪の日も、早朝目覚まし時計で飛び起きて配達した。
坂の多い区は自転車を使えず、足で走って配っていた。自分の欲しい自転車や、グロー
ブやバットのために自分で稼ぐのは、当然だと思っていた。
 畑の収穫を手伝ったり、稲の収穫を手伝ったりするのも当然の事だった。マタイの家
ではそれらは当然な事で、その上学業は優秀でなければ済まされなかった。
 朝小一時間の労働は、マタイの脚を健脚にした。マラソンではダントツでみんなを引
き離した。十歳の時、マタイの欲しかった電光式ライトの付いた、格好いい自転車を買
った。その後、兄弟で金を出し合って、当時高価だったTVゲームなどを購入した。マタ
イは、エレキギターを新聞配達で買った。黒のグレコのジェフベックモデルのレスポー
ルだった。シングルレコードやLPレコードを自分の労働で稼いだ金で買った。当然の事
だと思っていた。 
 その頃、マタイが3歳の時、John Matthewの名前で書いた、少女漫画がアニメ化され
た。マタイは観なかった。観ずにロックショウを観ていた。クラスメイトの女の子がマ
タイにサインをせがみ、マタイは慣れた手つきで、John Matthewと書いた。英語の筆記
体などまだ学校で勉強していなかったはずなのに、英語の筆記体で自分のペンネームを
すらすら書く自分が、マタイ自身不思議だった。




 5th Work
Factory

 ST ANDREW'S BOY'S HIGHSCHOOLでは、バイトは基本的に禁止だった。しかし、もう
十六歳になっていたマタイは、夏休み、工場で働いた。それはマタイにとって一つの音
楽だった。規則正しいリズムが幾層にも重なって鳴るインダストリアルノイズは、音楽
そのものだった。たった一夏の工場労働は、梯明秀氏の云う、工場という場所で、主体
が認識する行為的直感だったのかも知れない。しかしそれは、マタイにとっては、工場
という音楽だった。




 6th Work
Nuclear job

 十七歳のマタイが、アンデレ教会での儀式を終えた夕、マタイは感じの良い青年の車
に乗ってドライヴした。着いた先は、神戸の或る教会だった。そこでは、或るオペラの
ような儀式のセットの準備で大忙しだった、マタイは、即座にその儀式が何であるのか
理解できた。先生がアメリカに渡る前に、マタイに予告していた或るショウだった。
 円形のソファーの下には、大掛かりな核装置があった。難しい物理学数式を使う実験
だが、原理は簡単で、磁石の反作用と同じ。核の反作用で浮く実験だった。被験者は健
康な結核患者なら誰でも良かった。マタイが選ばれた。ウラニウムのロケットが渡され、
マタイはソファーの上に寝転んだ。儀式が始まり、VTRのフィルムが回された。オペラ
のように、女性達のコーラスが鳴り響く、大掛かりな核装置が動きだし、マタイの寝転
んだ円形のソファーは宙に浮いた。その時、マタイの頭には、小さい頃詰め込んだ、物
理学数式が浮かんだ。一度、マタイのソファーが降ろされると、車椅子の半身不随のシ
スターが立ち上がった。立ってマタイと性交しようとした。スタッフは性交しているマ
タイとシスターをもう一度、浮かべようとしたが、マタイはびっくりしてそれどころで
はなかった。儀式は中断し、マタイは飛び跳ねて帰った。核の微量の放射を受けた身体
は軽く、何kmもある駅までの道のりを、追いかけるシスターの車よりも早く走り、阪急
電車が駅に着くと同時にマタイは飛び乗った。シスターは改札口まで来ていた。





 7th Work
Art tool shop

 十九歳のもうすぐ終わる頃、マタイは立命館大学の夜間部の試験にパスし、すぐに河
原町五条の画材店に入社し、社会保険証を受けた。
 マタイの主な仕事は、配達、集金業務で、ちょっとした使い走りだった。集荷される
画材類を選別し、配達先に分ける。それも配達先の中には、各自店のお姉さん達の、出
身芸大や女子短大の芸術科で、お姉さん毎、担当が決まっていたので、マタイが全部や
るとお姉さん達から怒られた。それらの学校には、自動車で配達された。
 マタイ本人の配達先は全てデザインスタジオで、京都中のデザイン室を自転車で走り
回った。配達で垣間見る、京都の芸術家の世界は魅惑的で、配達や集金先で嫌な思いを
する事は全くなかった。個性的なデザイナーと少しでも会話のやりとりをするのは楽し
かった。社会科学研究会に入った時、仕事と学業の両立ができなくなった。仲良くなっ
たデザイナーが、
 「サルちゃんがサルトルになるんだね。」
と励ましてもらって、画材店を後にした。辞める時、画材店のお兄さんから、ホストク
ラヴにスカウトされた。
 「君ならNo.1になれる。」
と、熱く勧誘された。そのお兄さんとは、LPを交換して別れた。悪い気はしなかった。
ただ自分は、勉強する為に京都に来ているからと、断った。たしかにホストクラヴに勤
める手はあった。昼間の大学に通っていたら、そんなバイトもしたかも知れない。





 8th Work
Student dining

 勤労学生にとっては、普通の部屋のように思えたが、苦学生の先輩からマタイは、こ
んな良い下宿に住んでる奴は見た事が無いと、言われ続けた。確かに二階の八畳間の窓
の外には、すぐ公園が見え、綺麗なキッチンもあった。
 学生寮の先輩の資本論の学習会は、深夜まで及び、マタイはその学生寮に住み込む以
外なくなった。生協食堂の飯炊きのアルバイトに就いた。単純な仕事で、しかも短時間
だった。みんな優しい人ばかりで、ここでもマタイは嫌な思いをする事はなかった。学
生食堂は夏休みが取れる。マタイは秋から別の仕事に就くつもりで、アルバイト継続申
請はしなかった。

 9th Work
Welfare office

 秋に京都に帰って来たマタイは、先輩のボルグの大学院受験勉強の助手をやった。ボ
ルグが原書の資本論を読み、マタイが日本語で資本論を口読した。ボルグは、マタイの
口読と同時に、ドイツ語を眼で追って行った。ボルグは「空想から科学へ」を英語で読
み、マタイが日本語で口読していった。二人の作業は、ボルグの大学院受験まで続いた。
 聴覚言語障害者センターの事務員のアルバイトを、民主主義青年同盟員に紹介しても
らった。主に、ワープロ打ちの仕事だった。自分の持っているワープロより、高級なワ
ープロを仕事場で使えるのが嬉しかった。手話ボランティアの講習会のレジュメや、新
聞を打ち、そのうち公文書のワープロ作成もするようになった。人の机を借りて仕事を
していたが、ボランティアのお姉さん達が、マタイの机に、お菓子や果物をたくさんプ
レゼントしてくれた時もあった。講習会の受け付けをしているマタイを、ボランティア
のお姉さん達は、
 「灰かぶりさん。」
と呼んだ。マタイは手話サークルに入った。レジュメのコピーや、新聞作りで徹夜はい
つもだった。仕事から抜け出して、講義に出、またバイクで職場に戻り、新聞を作った。
講習会の出席者の意見を新聞に載せると喜ばれ、レイアウトもだんだん凝って行った。
VTR機材を運んだりするマタイを、VTR室のお兄さんは、
 「機材運びのお兄ちゃん。」
と呼んだ。確かに、バンドのツアーのスタッフもこんな感じなのかも知れなかった。ア
ルバイト期間は、講習会の終わりと共にやってきた。手話で挨拶してみなさんとお別れ
した。



 10th Work
Cleaning of hotel

 二回生になったマタイは、そろそろ適当なバイトで落ち着きたいと思っていた。旅館
の清掃のバイトに就いた。老夫婦の経営するその京都駅の北側すぐの旅館は、家族的で
ここなら落ち着けるかも知れないと思った。仕事は短時間で、早く済ませたら、それだ
け早く帰る事ができて、時給は同じだった。煙草を吸わない当時のマタイには、これく
らいの時給で充分だった。マタイが結核持ちなのは、ご主人が解っていて、雨の日は、
ご主人がかわりにシーツを洗濯してくれる日もあった。優しい老夫婦だった。仕事が終
わると、マタイは有料自習室で、学習した。英字新聞を読んで市バスに乗り、深夜まで
大学の自習室で、KANTのCRITIQUE OF PURE REASONの英書ペーパーバックを読んでい
た。マタイの二回生の学生生活は順調だった。ほとんどの単位でAを取った。夏休みも
正月も帰らなかった。バイトの同僚が、
 「正月ぐらい帰れ。」
と、説教し、マタイは、アシュラのニューエージオブアースをタワーレコードで買って
帰り、ただLPを聴いただけでまた京都に帰った。
 「ちゃんと帰ったか。」
 「うん。」
 「お母さんと話したか。」
 「レコード聴いてただけやった。」
 「もぉー。」
昼間の学生からは、マタイは家出少年かのように、見えたのかもしれない。老夫婦は、
春休みの暇を出してほしいと願い出たマタイを囲んで、鍋をごちそうしてくれた。
 マタイは、そのまま京都に帰らなかった。



 11th Work
Medicine man

 病院を退院したマタイが、父の友人の売薬師のアシスタントをするよう、父に指示さ
れ、マタイは売薬師に付いて、名古屋に長野、埼玉を廻った。マタイのような少年を連
れる売薬師の歴史は、江戸時代からあった。運転免許を取り、マタイは売薬師の運転手
として再び廻った。高価な漢方薬が飛ぶように売れた時代だった。健康に不安を抱えな
がら、病院の医者に不信感を抱いているご老人は多かった。ご老人達の世間話を聞きな
がら旅は、長野県の山奥へと進んだ。隠れキリスタンの村や、大きな養蚕場や、桑畑が
一面に広がり、まるで、アニメーションの日本昔話に出てくるような、山々の村々と温
泉と人々。二度目の旅の後、マタイは友人を乗せて。長野を旅した。乗鞍岳を逆に走り、
カルデラ高原一面に霧がかかり、山を登山する人の群れは多かった。その旅は、スカイ
ラインGTRで、中央高速を200kmの速度を出して終わった。



 12 th Work
Newspaper Delivery Again

 リハビリの後、マタイは新聞配達の仕事に就いた。子供の頃とは違い、バイクで街中
を、三百件以上廻る、朝、夕刊の配達だった。長髪のマタイを、新聞店のおばさん達は、
警戒した。仕事自体は、淡々とこなせば良いだけだった。深夜に車で新聞店まで通い、
朝までバイクで、街中を配達するのは、何か特殊な任務に就いているかのように思われ
楽しい一面もあった。その頃、二十代半ばになった若い盛りのマタイは、異常な若い性
欲をADULT VIDEO女優達で満たしていた。マタイには、これといったアイドルなんてい
なかった。しかし、ファンタジックな美しい風景の中で、美しい裸体を晒すADULT VID
EO女優達こそ、マタイのアイドル達だった。そんなマタイの生活は、折り込み広告を仕
分けする主婦達には、バレバレだった。打ち解けた焼き肉パーティだったはずの席は、
酔っぱらって、結婚するカップルを皮肉るマタイの失言で、台無しになった。
 雨の日も当然、マタイの新聞配達は続く。深夜、濡れた身体を24時間営業の温泉で温
めた。車のカーステレオのラジオから、突然レッドツェッペリンの「天国への階段」の
LIVEヴァージョンがかかっては、また突然、放送が終わる。
 マタイは、夕刊だけの配達に代わり、バンド活動を始めた。バイト代で並行輸入され
るフェンダーメキシコを、毎月買い、毎月LIVEで破壊した。「ぴあ」に名前が細かい字
で載ってるのを自慢するマタイを、新聞配達店の人達は笑った。知らない間にマタイは、
店の全ての人達と打ち解けていった。
 仕事とバンド活動に慣れた頃、マタイは、まだ牧歌的だった天王寺の風俗に通った。
或る苦学生の風俗嬢と打ち解けたマタイは、いつも彼女を指名した。朝、天王寺の風俗
に通い、昼に帰って来て、昼から夕刊配達した。ありきたりな青年の風俗嬢への片想い
の恋愛だった。ただ、風俗嬢の元に通っている時間は、長く続いて行き、バンド活動が
軌道に乗っていくにつれ、マタイと風俗嬢は友達のようになっていった。
 風俗嬢はいつしか、マタイのために、自分の財布から延長料金を払い、ただ話したり、
マタイの長い髪を梳かしたりして遊ぶようになった。マタイは、
 「この女のためにならいくら払ってもいい。絶対将来稼いでみせる。」
という意気込みで、LIVE HOUSEサーキットに励んだ。
 新聞店の、お姉さんや主婦達との会話は弾んだ。パーティの席は、いつも和やかな家
族的なものだった。
 マタイが健康になったと確信したマタイの父は、マタイを売薬師の商売に連れて行っ
た。マタイは売薬師の乙の免許を取っていた。マタイが売薬師の行商に行く頃、風俗嬢
は、一日中マタイを買うと宣言していたが、その日、マタイは、父の行商先の旅館へ旅
立った。お互いの息子を自慢しあう、父と客。その行商で、マタイは少し大人になった
気がした。風俗嬢にオルゴールのおみやげを持って、再び会った後、今度は風俗嬢が旅
に出た。旅から帰って来た風俗嬢は髪を切り、マタイと風俗嬢は、一日だけ店外デート
した。まるでこの日の為に、永年風俗嬢の下に通っていたようなものだった。清楚な服
の彼女と、寺や神社を周り、永年の友人がやっと外でお互いの身の上話をした。二人の
前で秋の桜の木に桜が咲いた。そしてマタイと彼女の頭上には、UFOが飛んだ。
 鍋を二人でつつき、駅で別れた。また会う空約束をして、その二人はもう二度と会う
事はなかった。
 


 13th Work
Semi Professional Musician

 無事、父の行商の旅の助手をしたマタイは、家族から褒美として、しばらくセミプロ
ミュージシャンをしても良いと承諾を得た。姫路のLIVEHOUSEや岡山のLIVEHOUSEを大
阪のBEARSからサーキットしていった。
 「ギャラもらったよ。」
とマタイが差し出す三千円くらいの金に、
 「新幹線代の足しにもならないじゃないの。」
と、母は呆れたが、怒る事はなかった。母は、十代後半で既に、モデル兼ジャズピアニ
ストだった。マタイのような若いミュージシャンの事は、良く知っていた。屋内のステ
ージに出演依頼が来る若いミュージシャンは、まだ前途有望だと母は思っていた。
 芸術労働は、1エレのリンネルとは、等価形態には入らない。アルチュセールは、「
資本論を読む」ではっきり断言している。それは、自分の人生を賭けたギャンブルのよ
うなものだろう。ただ、自分の人生を真剣に賭けている芸術家は、競馬のようなものに
は興味を示さない。マタイもそうだった。レコード契約の話はすぐ舞い込んだ。ただ、
弟の結婚式と重なり、出演依頼の来た、シアトルへも、新宿にも行けなかった。当然の
ように、契約の話はこじれ、マタイは読書三昧の日々に入った。




 14th Work
NICHTS RECORDS

 新聞配達をしていた頃から、マタイはバイト代を資金に、カセットテープレーベルを
運営していた。最初は自分の音源のカセットテープを販売していたが、自分の音源の売
れ行きは、あまりパッとしなかった。また自分の音源を自分で売って、販売数を店主に
聴く行為が何故か釈然とせず、スタイリッシュにはいかなかった。マタイは、ZIGGY
ATEMというアーティストに出会った。超個性的なこの人物の音源なら売れる、と確信
し、ZIGGY ATEMに音源とジャケットを送ってくれるよう頼んだ。ZIGGY ATEMのカセッ
トテープをダヴィングする日々、一つ一つマタイは、丁寧にカセットテープを作って
行き店に卸した。卸したギャラは、封を切らずにそのままZIGGY ATEMに手渡した。
 ZIGGY ATEMのカセットテープは売れに売れた。海外にまで輸出し、売れた。NICHTS
RECORDSには、封筒にドルが入れられたまま注文が来た。ZIGGY ATEMは、店主のレー
ベルに移籍し、コメディアンになった。
 気づいた時には入院していたマタイは、退院後、ゆっくり自分の音源を作っていった。
CDR機が低価格になったので、自分の作品のCDを作って売ってみた。評判は上々だった。
アートデザイナーが協力してくれ、マタイは次々と音源を作り、リリースしていった。
売り上げは適当にあった。ただ作る事が楽しかった。その頃は、デザイナーの版下をカ
ラーコピーして、自分で紙切りばさみをコピーに入れ、CDケースに折っていった。盤に
はマジックペンでタイトルを自筆した。
 渋谷のレコード店にNICHTS RECORDSのコーナーが組まれ、結構な売り上げがあった。
マタイは、その売り上げでガールフレンドと、リッツカールトンの28階に泊まった。
 アメリカのインターネットラジオ局で、ASKA TEMPLEの曲が次々とかかった夏、
EUROCKの編集長が、NICHTS RECORDSの、アメリカでの委託販売を引き受けてくれ、卸
した30枚くらいのCDが一時間でSOLD OUTし、また卸した30枚のCDも三時間でSOLD
OUTした。
 母が亡くなった時、マタイの音楽事業を支援する家族はいなくなった。経費百万円、
収入七十万円の健全経営だった。母の葬式の後、赤字を働いて補填するよう弟からたし
なめられた。マタイは、再び労働に就いた。



 15th Work
Cleaning of Hotel Again

 マタイは、ラヴホテルの清掃のアルバイトの面接に行った。風呂掃除を希望して、採
用された。ただ一ヶ月の試験期間があった。マラソンのように全六階の部屋の風呂を磨
いていく。大量のバスクリーナーの匂いは、シンナーだった。すぐにシンナーの匂いが、
マタイに染み付いた。一緒にチームを組んでいた清掃の女の人に、お姉さんと呼んでも、
おばさんと呼んでも、名前で呼んでも怒られた。マタイはどうせズボンは濡れるので、
スカートをはいて清掃した。さすがに、副支配人の女性に注意されて、スポーツ用品店
で買った、ゴルフ用のスラックスにハサミを入れて、短パンにした。単純な作業だった
が、室内掃除のお姉さん達と歩調を合わせようとしないマタイは、使いにくいとぼやか
れていた。最上階の大きな部屋の浴場の掃除は、マタイのお気に入りだった。特殊なエ
コーのかかるその浴場の音は、マタイの好きなジャーマンロックのシンセサイザー音楽
の音響に似ていた。配水管のベルを磨くのも愉しかった。先輩から、
 「これができるのは、器用な奴だ。もう一人はできない。」
と、云われた。マタイは、自分は不器用な方だと思っていたが、ベルを器用に取り、磨
き、そして元に戻す自分の手は、器用なのだと確認できた。
 一週間が経つ頃、マタイは、交代する夜勤の女性や、受け付けの女性達に、
 「チョコレート食べませんか。」
とか言って、打ち解けかけていた。その女性は、他の受け付けの女性に、
 「マタイさんがチョコレートくれるって。」
と呼んで来たりして、みんなで世間話をするようになった。
 休憩時間、自分の女性遍歴を、お姉さん達から聴かれたマタイは、
 「ギタリストはギターは巧いけど、SEXは下手。」
と答えて、爆笑を誘った。
 何も嫌な事は無い一週間だったが、肺を患った事のあるマタイに、シンナーの匂いは
明らかに毒だった。休みを取って、マタイはそのまま辞めた。



 16th Work
Agriculture Volunteer

 母の死後、家に居づらくなったマタイは、三ヶ月ワンルームマンションに住んだ。四
畳半の、キッチン、バス、トイレ付きの部屋から、マタイはリハビリセンターに通った。
建物の中に入ると、まるでスラムのようなビルだったが、今の自分が、ニューヨークで
もし独居したら、こんな感じだろう、と思えた。ヘッドフォンで、CDプレーヤーから音
楽をかけた。スカートをはいてベランダから煙草を吸うマタイは、電話もネットもTVも
ない生活が気に入っていた。
 リハビリが三ヶ月目に入って、マタイの所持金は少なくなっていき、マタイは、明日
香村の日本共産党の事務所に、仕事を紹介してもらいたいと、尋ねた。施設の代表者を
紹介され、マタイはそこで勤めれるのかと思ったが、施設に入らないか?と云われた。
知的障害者の施設に、マタイのようなインテリがどうやって入れと言うのか?即座に日
本共産党に入党申請を出し、農業ボランティアの仕事を世話してもらった。もともと民
主主義青年同盟員だったマタイに入党許可証はすぐ出た。御所の山奥で、農園の玉ねぎ
の苗植えを手伝った。心に病いを持った青年を、腫れ物に触るように接してくれる農家
の家族と、アルバイトで来ているお姉さん達と世間話をしながら、広い風景の広がる御
所の山谷の風に当たっていると、何故か凍てついた心が解け出していくのを感じた。
 共産党議員は、パソコンの経理事務を覚えるようにと、経理の伝票事務をマタイに与
えた。低賃金だったが、職業訓練に金を出してもらっているようなものだった。英語講
師のボランティアをリハビリセンターでしながら、マタイは順調に伝票事務を覚えてい
った。榛原の御杖村という山奥で、Vinyl Houseの解体作業を、マタイはボランティアで
やった。ほとんど一人で一日で片付けた。送り迎えの車の中で、奈良県はこんなに広い
のかと驚きを隠せなかった。
 共産党の会議では、マタイのような珍しい若者を、みんなが取り囲んだ。しかし、そ
のうち、選挙に立候補してみないか、という話になった。もちろんマタイの父が断り、
半年間在籍した、日本共産党を去った。




 17th Work
Non Profit Organization

 リハビリセンターで、マタイは英語とギターを教えるようになった。ギター教室の院
長に許可を取り、初級教則本で教えたが、ギターでBACHが弾けるマタイにも、教える
のは、難しく、また基本に忠実なマタイのやり方は、厳しすぎるとクレームが付いたが、
マタイは基本を大事にする方針を変えなかった。アポヤンドとアルアイレを厳しく指導
した。人差し指(i)と、中指(m)、と薬指(a)と親指(p)の角度を注意し、斜めに置いた
指が直角に進むように細かく指示した。「i,m,i,m」といった人差し指と中指を交互にじ
ゅんぐる指の順序も特に厳しく指導した。結局、二人だけの生徒が、マタイと二重奏で
きるところまで上達し、二人とも、上の施設に上がって行った。高学歴の人が多い、リ
ハビリセンターで、英語を教えるのは大変だった。マタイは、ミスが一つも許されなか
った。英文法の参考書を引っ張り出し、すべてのレジュメの単語は、もちろん辞書で確
認していった。外語大卒の女性からマタイが認められるのに、半年かかった。それでも
皆を満足させるようなおもしろいテキストを作り続けなければならなかった。
 リハビリセンターは精神障害者の当事者会で、NPO法人に移行する計画を持っていた。
大阪NPOセンターで、NPOのコンペティションが行われ、マタイと代表者達は、エント
リーした。代表者が訥々と、自分達のセンターの道のりや活動内容をスピーチする傍ら
でマタイは、ミゲルサントスでBACHのAIRを弾いた。コンペティションに受賞したマタ
イ達は、賞金を獲得し、NPO法人を作る会の代表者と諸手続きを済ませ、NPO法人の認
可を得た。第二センターの所長になっていたマタイは、会報の作成や、経理事務、教室、
市役所の職員との折衝と何から何までやった。徹夜で通所者記録を作り上げ、困難を極
めた予算の折衝になんとか成功した。数百万の予算を市から取ったマタイは、百万円足
りないと、引責辞任した。




 18th Work
Guitar&English Teacher

 半年ぐらいの休暇を取り、TOEICの試験勉強をしていたマタイを、センターは呼び戻
した、教室の講師として。今度のマタイは気楽な部外者だった。英語のレジュメは、段
々と高度なものにしていった。最後は、生徒が自分で答えを選ぶようにした。ギター教
室は、長く続く生徒はいなかった。エレキギターがばりばり弾けるお兄さんが生徒にな
ったが、全く楽譜が読めなかった。また教則本もつまらないと投げ出し、マタイの家で、
ギターアンプを大きめの音で弾かせていた。そのお兄さん、アッパーフィールドは、ス
ピリチュアルお宅で、マタイは次第に、昔、自分の持っていた精神的な側面を憶い出し
ていった。或る日、アッパーフィールドは、或るスピリチュアルなセッションにマタイ
を連れて行った。其処は、マタイが子供の頃受けた、特殊教育機関の出張所だった。
 マタイに、
 「お帰りなさい。」
と言うお姉さんは、十七歳の時、マタイの前で立った、車椅子の半身不随のシスターだ
った。シスターは立っていた。結局マタイは、帰ってきた。
 「長旅ごくろうさん。」
と、呼びかける、年輩の偉い先生。
 マタイの全ての労働は、全てMISSIONだった事が、シスターから告げられた。そして
そのMISSIONSの成功は全ての記憶をマタイが憶いだせるかどうかにかかっていた。マタ
イは、最初の先生から、再指導を受けた。全て遠隔の指導だった。遠い処にいるはずの
先生の声は、明らかに幻聴ではなかった。指が的確に反応し、次第に、マタイがどんな
子供だったのかが、あらわになっていった。幼児期の記憶を全て失っていたマタイの指
導は困難を極めた。徐々に明らかになるマタイの幼児期。そして航海は帰港したが、港
はなかった。

                                    fin


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電器屋の女

電器屋の女
       ヨハン ユーベル

 その頃、アベルは入退院を繰り返した後、大阪の友人に誘われ、大阪のROCK BANDの世界に入り、アルバイトとバンド活動に忙しい充実した日々を送っていた。車は軽から黒のシビックに乗り換えた。或る日、ワープロのインクリボンがなくなったので、車を電器屋まで走らせ、その中型のチェーン店を訪ねた。インクリボンのコーナーには、対応機種の名前が並んでいたが、アベルのワープロ文豪Miniは、機種が古すぎて、表には書いていなかった。そこで、近くに居た若い男の店員に、
 「あのう、文豪miniこのインクリボンに対応してますか?」
と訊くと、
 「そこに書いてあるでしょ?字読めないんですか?」
と、如何にも、小物を売る気がないという応対をしたので、腹が立ったアベルは、冷蔵庫を買いに来た老夫婦に、ごますり接待をしているその店員と、客の老夫婦に向かって、
 「お客さん、こいつ、箱もの売っても、アフターサーヴィスする気全然ない、って言ってますよ。」
と、言ってやった。すると、その店員は、
 「営業妨害で訴えますよ。」
と、怒って来た。アベルは、
 「そっちこそ、客の人権侵害で訴えたる。書いてないから聴いてるんじゃ!」
 「お前なんか話にならん、上呼べ上!。」
すると、2階から、その店員の上司が飛んで来て、
 「何か不届きがありましたでしょうか?」
と、急いで謝った。
 「こんな奴の事はどうでもいい。」
 「僕の文豪mini古すぎて、この対応機種表に載ってないんですけど、使えますか?」
すると、上司の店員は、丁寧な仕草で、
 「はい、使えます。」
と答えた。やっと店の中が正常な雰囲気に戻った。
 「それじゃ信用してまとめ買いしますよ。こんなヤナ店員いるとこしょっちゅう来たないから。」
 アベルは、レジで会計を済ませようとした。少々所持金が足らなかったので、持ってる金額の範囲の個数に換えてもらった。若い店員は、レジの女に何やらブツブツブツブツ呟いている。どうやら、この若い店員とレジの女はできてるらしい。
 「兄ちゃん、女といちゃいちゃしに会社来てるんやったら、朝から風俗通った方がマシやでぇ~。」
 「風俗朝9時からやってんで、朝から行って抜いてったらどうや。」
若い男の店員は、怒りを顕わにしそうになった時、レジの女の会計が済んだ。すると、そのレジの女は、アベルに向かって、ニコッと微笑み、
 「アベル君。」
と、話かけた。大木だった。しかしアベルは、
 「お前の知ってるアベル君は死んだ。今の俺は別の人格や。」
 「お前なんか知らん。」
 「お前等が殺してんやろ。」
大木は、レジの片隅で大声で泣き出した。
 「お金を盗った上に、人殺しまでしてしまった。」
と、大声で泣き続けた。隣にいた大木とできている若い男の店員は、
 「こいつぴんぴん生きとるやんけ。」
と、怒り出した。泣き続ける大木にむかって、アベルは
 「ざまあみろ!。」
と、捨てゼリフを残して、黒のシビックに乗った、若い男の店員は、怒って、アベルを追いかけて来たが、アベルは、店員を轢かない程度に、車を回転させ、電器屋を去った。
 

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