Aska Temple

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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part17

ヘーゲル「精神の現象学」B 自己意識 IV 自分自身だという確信の真理 Die Wahrheit der Gewissheit seiner selbst  
B 自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸な意識  Freiheit des Selbstbewusstseins;Stoizismus,Skeptizismus und das ungluckliche Bewusstsein


(一)ストア主義

  「自立的な自己意識(主)にとっては、一方では、ただ、自我、という、純粋抽象だけが、自分の実在であるが」

  「これに対して、己れのうちに、押しもどされた、意識(奴)のほうは、形成するに当たって、形成せられた、諸物の形相として、自分が対象となることを、認めているし、」
  「また、これと、同時に、主において、この意識は、対自存在が意識であることを、(客観的に)直感している。」

  「自由な自己意識である。」

  「いったい、『表象』の場合には、『これこれが、自分の表象である』ことを、意識が、取り立てて、予め、ことわっておく必要があるのに」
  「概念は、私にとって、直ちに私の、概念である。」
  「思惟において、自我は自由にある。」

  「この形態の対象が、即自存在と対自存在との統一ではあっても」
  「この統一が、直接的な統一だといえるということである。」

  「自己意識のかかる自由は、自覚的な現象として、精神史において、登場したときには、周知のごとく、ストア主義とよばれてきたものであるが」
  「この主義の原理は、意識が、思惟するものであること」
  「また、或るものが、意識に対して、実在性を、もつのは」
  「意識に対して、真ないし、善であるのは、意識が、思惟するものとしての態度をとって、それに、関係する場合だけだ、ということである。」

  「『自由』と、言っても、ただ、自由の概念であるに、すぎないのであって、活き活きとした、自由自身ではない。」
  「まことに、この自由にとっては、まだやっと、思惟一般が、即ち、諸物の自立性から、離れて、己れのうちに、退いた、形式のものが、実在であるにすぎないのである。」

  「だから、ストア主義は、当時よく用いられた、言葉で言えば、およそ、真理一般の標準とは、なんであるかと」
  「即ち、いったいぜんたい、思想そのものの内容とはなんであるか、と、問われた、ときには、当惑におちいったのである。」
  「ストア主義に向かって、なにが善であり、また、真であるかと、問うと、この主義は『真なるもの及び、善なるものは、合理性のうちに存するはずである』という。」
  「またもや、無内容な思想そのものを、もって、解答として与えたが」

  「かくして、この、思惟する意識は、自分で自分を、抽象的な自由であると、規定したが」
 
  「この意識は、対他存在の不完全な否定であるにすぎない。」


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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part16

ヘーゲル「精神の現象学」B 自己意識 IV 自分自身だという確信の真理 Die Wahrheit der Gewissheit seiner selbst  
A 自己意識の自立性と非自立性、主であることと奴であること Selbstandigkeit und Unselbsrandigkeit des Selbstbewusstseins, Herrsshaft und Knechtschaft.


(三)主と奴

α 主であること


  「主は、自分だけで存在する、意識ではあるけれども」

  「このさい主は」
  「(a)自己意識の『概念』としては、自分だけで、の存在の無媒介的関係であると」
  「(b)同時に、しかし、今や、媒介態として、言いかえると、ただ、他者を介してのみ、自分だけで存在するところの、自分だけの存在としてもあるのだから」
  「主は(a)無媒介に両者に関係すると共に」
  「(b)両者の一方を介して、他方に媒介的にも関係することになる。」
  「(この媒介関係に二つある)
  「(一)主は、自立的な存在を介して、奴に媒介的に関係する。」
  「(二)これと全く同様に、主は、奴を介して、物に媒介的に関係する。」

  「主は、享受することを、うるのである。」

  「主にとっては、自分が他方の意識によって、承認せられているということが、生じている」

  「主は、自分だけでの存在が、(自分の)真理であることを確信しているのではなく」
  「主にとって自分の真理であるものは、むしろ、非本質的な意識であり、また、この非本質的意識の非本質的な行為である。」

  「したがって、自立的意識の真理であるのは、奴としての意識である。」

  「奴であることも、そとから己れのうちに、押しもどされた意識として、己れに至り、かくして、顛倒して、真の自立性となるであろう。」


β 奴の畏怖と奉仕


  「しかし、奴であることも、自己意識であるので」

  「奴であることに対しては、主が、本質であるから、自立的な自分だけで、存在する意識(主)が奴であることにとって、真理であるけれども」
  「まだ、奴であることに、即してある(具わる)ものではない。」
  「しかしながら、奴であることも、純粋の否定性と、自分だけでの存在、という真理を、じっさいには、自分自身に即して、具えている。」

γ 奴の形成の労働

 
 「労働を媒介とすることによって、意識は、己れ自身に、至るのである。」

 「労働は、形成するのであり」

 「労働するものに対して、こそ、対象は、自立性をもつからである。」
 「労働することというこの、否定的な媒語または、形成する行為も、同時に個別態であり」
 「言いかえると、意識の純粋な、自分だけでの存在ではあるが」

 「だから、労働する意識は、こうして、自立的な存在を、自分自身だとして、直感するに至るのである。」

 「自分の純粋な、自分だけでの存在が、存在するものになることを、認めるようになるのであるが」

 「造形においては、自分だけでの存在は、自分自身のものとして、自分に対して、あるようになり」
 「かくして、この奉仕する、意識自身が、即自且つ対自的にあることを、自覚するに至るのである。」

 


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ヘーゲル『精神現象学」を読む Part15

ヘーゲル「精神の現象学」B 自己意識 IV 自分自身だという確信の真理 Die Wahrheit der Gewissheit seiner selbst  
A 自己意識の自立性と非自立性、主であることと奴であること Selbstandigkeit und Unselbsrandigkeit des Selbstbewusstseins, Herrsshaft und Knechtschaft.


  「自己意識は、即自且つ対自的に存在するが」

  「自己意識は、ただ、承認せられたものとして、のみ、存在するのである。」

  「『我々』には、承認の運動が現れてくる。」

(一)承認の概念

  「自己意識に対して、ひとつの他の、自己意識があり、自己意識は、自分のそとに出ているが、このことは、二重の意味をもっている。」
  「第一には、自己意識は、自分自身を喪失している。」
  「なぜなら、自己意識は、他を実在として、見出すからである。」
  「第二には、自己意識は、そうすることによって、『他者』を撤廃している。」
  「なぜなら、自己意識は、また、他者を、実在とは見ずに、他者のうちに、自分自身を見もするからである。」

  「第一には、自己意識は、この撤廃によって、自分自身を再び、取り戻す」
  「なぜなら、自分の他的存在を、撤廃することによって、自己意識は、再び、自分と、同一となるからである。
  「しかしながら、第二には、自己意識は、自分に、再び、他の自己意識を、与え戻す(他の自己意識を再興する)」
  「なぜなら、自己意識は、自分が、他者のうちにあることを。認めていたのであるが」
  「かく他者のうちにある、自分の存在を撤廃することによって、他者を再び放免し、自由にすることになるからである。」

  「こうして、『自分のそと』というものを、対自的に認めている。」

  「両極は互いに承認しあっているものであることを、互いに、承認しあっている。」

  「一方は、ただ承認せられたものであるにすぎず、他方は、ただ、承認するものであるにすぎぬ、という側面を示すであろう。」


(二)承認のための生死を賭する戦い

  「自己意識にとって、その本質であり、絶対的な対象あるものは、自我であり」

  「それでは、自己意識によって、他者が、なんであるか、と言うと『否定的なもの』という刻印をおされた、非本質的対象として、あるものである。」

  「対象(相手)(の存在)が、自分自身についての、かかる純粋な、確信であるのを、呈示してくれるより、以外のことではなかろうからである。」

  「そこで、両方の自己意識の関係は、両者が、生死を賭する戦いによって、自分自身の、またお互の、証しを立てることである、と、規定せられるわけである。」
  「両者は、この戦いに入らざるをえない。」
  「なぜなら、両者は、自分だけで、存在するという自己確信を、(客観的)真理まで高めざるをえず」
  「しかも、他者についても、自分自身について、そうせざるをえぬからである。」
  「自由の証しの立てられるのは、ただ、(己れの)生命を賭することにのみよっており」

  「かえって、自己意識においては、自分にとって、消失する、契機でないようなものは、何ひとつもないことの」
  「自己意識が、ただ、純粋な自分だけでの存在しかないことの、証しの立てられるのも」
  「ただ、生命を、賭するのを介してのことである。」
  「生命を、賭さなかった個人も、たしかに、人格として、承認せられることは、できるけれども」
  「しかし、自立的な自己意識として、承認させられているという真理を、達成はしなかったのである。」

  「両者は、意識の二つの相対立せる形態として、あることになる。」
  「一方の形態は、自立的意識であって、自分だけでの存在をもって」
  「他方の形態は、非自立的意識であって、生命ないし、他者に対する、存在をもって」
  「それぞれ、本質としている。」
  「前者は、主」
  「後者は、奴である。」

  



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ヘーゲル『精神現象学」を読む Part14

ヘーゲル「精神の現象学」B 自己意識 IV 自分自身だという確信の真理 Die Wahrheit der Gewissheit seiner selbst  (三)

B 自己意識
IV 自分自身だという確信の真理

(三) 自我と欲望


   「最初の、無媒介の統一から出発して、形態化と(生命の)過程という(両)契機を通じて、これら両契機の統一へと、還帰し、」
   「したがって、再び、最初の単純な実体へと、還帰したのであるから」
   「この還帰した統一は、最初の統一とはちがった別の統一である。」

   「この第二の統一は、これら、すべての契機を止揚せられたものとして、内含している、普遍的な統一である。」
   「この普遍的な統一が、単純な類であるが」

   「この意識は類であることを、自覚している。」

   「しかし、かかる生命は、自己意識である。」

   「自己意識は欲望なのである。」

   「しかし、これと同時に、自己意識は、また絶対に、自分だけで、存在するものであり」
   「そうして、自己意識が、かく自分だけで、存在するのは、ただ、他者を撤廃することにのみ、よっているのであるが」
   「さりとて、自己意識が、(絶対に自分だけで、存在することの)真理である以上」
   「自己意識には、その満足が生ぜざるをえない」

   「(a)自己意識にとって、最初の無媒介な、対象は、純粋な、区別のない、自我である。
   「(b)しかし、この無媒介は、それ自身絶対の無媒介であり、ただ、自立的な対象の撤廃として、のみ、あるものである、言いかえると、この無媒介は欲望である。」
   「欲望の満足は、もちろん、自己意識の己れ自身のうちへの還帰であり」
   「言いかえると、(客観的)真理となった、確信ではあるが」」
   「(c)しかし、この確信の真理は、むしろ、二重の還帰であり、自己意識の二重化である。」
   「ここで、真理に対して、対象であるところのものは、自分自身において、自分が、他的存在であること」
   「ないし、区別であることを、なきものとして、定立し、」
   「しかも、そうすることにおいて、却って、自立的である、対象である。」
   「ただ、生命をもつにすぎない、区別された形態も」
   「もちろん、生命そのものの過程のうちにおいては、自分の自立性を、撤廃しはするが」  
   「しかし、この形態は、区別である(限界)まで行くと、もう自分が、そうであろう、形態をやめるのであるが」
   「これに対して、自己意識としての、対象は、己れ自身を否定しながら、全く同様に、自立的でもあり」
   「そうであることによって、自ら、自覚的に類であり」
   「分離して、特異のものである、さなかにおいて、普遍的流動でもある。」
   「すなわち、この対象は、生ける自己意識なのである。」

   「ここに初めて、自己意識に対して、己れの他的存在における、自己自身との、統一が、自己意識に対して、生ずるからである。」

   「欲望の対象は、ただ自立的であるにすぎない」

   「この対象は、普遍的な、絶滅すべからざる、実体であり」
   「流動的な自同的な実在だからである。」
   「しかるに、自己意識が対象であるときには、この対象は、対象であると、全く同様に、自我でもある。」

   「今後に、意識に対して、生ずるものとは、いったい、精神とは、なんであるかという、経験である。」
   「精神という、この絶対的な実体が、もっている、対立、即ち、相異なり、各自別々に、存在する、両方の、自己意識が、各自に、全く、自由であり、自立的であるのに
    両者の統一」
   「即ち、我々である、我と我である、我々とを、形づくる、さいの、絶対的実体である、精神が、なんであるか、についての経験が」
   「今後に意識に対して、生ずるものなのである。」
   「意識は、精神の『概念』としての、自己意識において、初めて、転換点に立ち」
   「ここで感覚的此岸のいろとりどりの仮象から、また、超感覚的彼岸の空虚な夜から、現在という、精神の昼のうちに、歩み入るのである。」

  


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ヘーゲル「精神現象学」を読む Part13

ヘーゲル「精神の現象学」B 自己意識 IV 自分自身だという確信の真理 Die Wahrheit der Gewissheit seiner selbst  (一)(二)


「対象についての、最初の直接的な『表象』は経験のすすむにつれて己れを止揚するのであり」
   「かくて、確信は、真理のうちに、消え失せたのである。」
「自我は、他者に対立して、自分自身であると同時に」
   「この他者を越えて、包みもしており」
   「したがって、他者は、自我にとっても、また、まさに、自分自身であるにすぎぬのである。」

(一)先行形態と自己意識

  「かくして、『我々』は、自己意識(の段階)にたどりつくと共に、真理の郷土的な国に歩み行ったのである。」

  「私念の存在、知覚の個別態と、これに、対立する普遍態」
  「それから、また、悟性の空虚な、内なるものは、もはや、実在としてではなく」
  「自己意識の諸契機として、あるのであるが」

  「しかし、自己意識とは、じっさいにおいては、感覚的な、知覚的な世界の、存在から反省することであり」
  「本質的に、対他存在から還帰することであるから」
  「自己意識が、自己意識であるのは、運動としてのことである。」

  「だから、自己意識に対しては、ひとつの存在としての、対他存在があることになり」
  「その認むるところとなるが」
  「これが即ち、区別された契機(の第一)である」
  「自己意識に対しては、この、区別されたものと、自己自身との、統一もまたあるが」
  「これが、第二の、区別せられた契機である。」

  「そこで、自己意識の現象と、真実態との、対立が、生じてくるが、この対立は、ただ、真実態のみを、即ち、自己意識の、己れ自身との、統一のみを、本質として、もって
   いる。」
  「そこでこの統一が、自己意識にとって、本質的とならさざるをえないが」 
  「このことは、自己意識が欲望一般であることを、意味している」
  「だから、自己意識としては、意識は、今や、二重の対象をもつことになる。」
  「一方の対象は、直接的な対象であり」
  「感覚的確信と知覚の対象であるが」
  「これは、自己意識にとっては、否定的なものの性格を刻印せられている。」
  「自己意識がもつ、第二の対象と、言うのは、即ち、自己自身のことであり」
  「これが、真実の本質であるけれども」
  「この第二の対象も、さしあたっては、第一の対象との対立においてあるにすぎない」
  「この対立において、自己意識は、運動として、現れてくるが」
  「この運動において、対立が、止揚せられて、自己意識には、己れ自身との統一が、生成してくるのである。」


(二) 生命

  「自体的には、対象も、自分のほうでは、やはり、自分のうちへ還帰している。」
  「かく、自分のうちへ、還帰していることによって」
  「対象は、生命となっている。」
  
  「そこで、直接的な、欲望の対象は、生命あるものであるが」
  「即ち、悟性が、諸物の、内なるものへ、関係することによって、えられた、自体、ないし、普遍的な結果というのは」
  「区別せられえぬものを、区別することであり」
  「区別のあるものを、統一することであるが」
  「この統一もやはり、己れから拒斥するので」
  「統一というこの概念は、二つに分かれて、自己意識と生命との対立となるのであるが」
  「前者は、区別の『無限』な統一であることを、自覚している統一であり」
  「これに対して、後者は、ただ、この統一自身であるにとどまって、同時に、この統一たることを、自分では、自覚していない統一である。」

  「さしあたって、欲望であるところの、自己意識は、むしろ、対象の自立性を、経験することに、なるであろう。」

  「(第一に)本質であるものは、あらゆる区別項が止揚されてあることとしての、無限性であり」
  「運動ではあっても、純粋な軸回転運動であり」
  「絶対に、不安定な無限性でありながら、自分自身安らいであり」
  「運動にさいして、の区別項を、解消させているところの自立性自身であり、空間としてのしっかりとした形態をも具えていながら、時間の単純な本質として、自同的であるも 
   のである。」
  
  「(第二には)区別項は、この、単純で、普遍的な、媒体において、あるにしても、やはり、区別項として、存在する。」
  「なぜなら、この普遍的な流動性が、その否定的な本性を持っているのは」
  「ただ、それが、区別項の止揚であることにのみよっているが」
  「もし、区別項が存立をもっていないとすると」
  「この流動性とても、区別項を、止揚することはできないからである。」
  「だが、まさに、この流動的こそ、自同的な自立性として、それ自身」
  「区別項をして、存立させるものであり、言いかえると、区別項の基礎に立つ実体であり」
  「したがって、この実体においては、区別項は、区別せられた、分肢として、また、各自自分だけである部分として、存在する。」


  「だから(第三には)(分肢の)存在と言っても、もはや、存在だけを、抽象したものを、意味するのではないし」
  「また分肢に純粋本質態と言っても、普遍性だけを、抽象したものを、意味するのでもなく」
  「分肢の存在が、そのまま、純粋な、自己内運動のかの単純で、流動的な実体なのである。」

  「無限性ないし、純粋運動の、諸契機がもつ、限定においてのことであて」
  「これ以外の、いかなる限定においてのことでもない。」

  「自分の自分だけでの、存在の止揚だからである。」

  「しかも、よってもって、自分が、自分だけで、存在するこの対立を止揚する、ゆえんである。」

  「自分だけで、存在するものも、自体的には、単純な実体であるから」
  「この自分だけで、存在するものが(自分を、止揚するための単純なものとしての)自分のうちに(実体を)他者として、定立するときには、自分の(本質としての)かかる
   単純態を、言いかえると、自分の本質を止揚することになるのであるが」
  「これは、自分だけで、存在するものが、自分の単純態を、分裂させることを、意味しており」
  「そうして、かく区別のない、流動性を、分裂させるものであると、同時に、こうして、存立するようになっている、区別項を解消するものでもあるが」
  「しかし、分裂を解消することもまた全く同様に、分裂することであり」
  「分肢することである。」

  「生命をなしているのは、己れを展開し、この展開を解消するという、運動のさなかにおいて、己れの単純態を維持しているところの全体なのである。」






  


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